イエメン滞在記【Vol.4】
ワディ・ドアンからムカッラーへ。涸れ谷を抜けアラビア海に至る
*イエメン滞在記一覧|参考文献「イエメンを知るための63章」(明石書店)
2026年1月。実に6年半ぶりに再びイエメンを訪れました。今回、2019年のイエメン渡航でもお世話になったガイドさんと共に、政治や宗教の中心地ワディ・ハドラマウトや美しい渓谷が広がるワディ・ドアン、アラビア海に面する沿岸都市ムカッラーなどを一週間かけて巡りました。
今回の旅では、前回のイエメン渡航であまり触れることができなかった現地の伝統や文化、歴史に がっつり浸かることができ、改めてイエメンの魅力やツーリズムの面でのポテンシャルの高さを再認識しました。今シリーズでは、戦争だけではない、かつて「幸福のアラビア」と呼ばれたイエメンの魅力的な側面を中心に紹介しています。
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目次
長閑なワディで暮らす素朴なイエメン人たち
「ドミノ」を通して観る私たちの人生
野菜や魚介、雑貨に羊!?なんでも揃う「曜日市」
涸れ谷を抜け大海原を目指す
アラビア海の波音や潮風を感じながら
長閑なワディで暮らす素朴なイエメン人たち
夜明け。薄暗い静寂の地平線が次第に明るくなり、こちらを覗き込む様にゆっくりと太陽が顔を出す。ワディ・ドアンの深い渓谷に朝日の光線が差し込み、ハイド・アル=ジャズィール村を照らした。
ワディのどこぞの村の鶏が「コケコッコーーーーッ!」と、夜明けを告げる甲高い鳴き声を渓谷中に響き渡らせ始めた。上着を着ていないと寒くていられなかった外気が、日の出と共に一気に暖まっていく。「最高の朝だ!」と心底思った。
基本的に早起きは苦手なのだが、どうしてもこの場所から日の出と早朝のワディの景色を拝みたいと思い、眠い目を擦りながらカメラ片手に夜明けを待っていたのだ。改めて今回のイエメン旅で一番の眺めであったと断言できる。ただ、写真だけでその魅力を余すことなく伝えきれないのが残念だ。
最高の朝の余韻に浸りつつ、8時頃にラドワンやアハマドたちと朝食を共にした。早朝寒かっただけに、グラス一杯の甘いシャーイーが五臓六腑に染み渡った。「今日はワディ・ドアン一帯の村を回ろう!」。他のメンバーと打ち合わせをしながら朝食を摂っていたアハマドがおもむろに告げた。
個人的に現地の人々の暮らし、特に田舎の村人の暮らしぶりを見聞きし体験するのが大好物なので願ったり叶ったりな提案だ。今日は、最高の夜明けに村巡りと素晴らしい一日になりそうな予感がビンビンする。未知のものに触れる期待を胸にホテルを出発した。
蛇行した涸れ川に生い茂るナツメヤシの木々。その外側を涸れ川に沿いに道路が伸び、日干しレンガの家々が建ち並ぶ。それら全てを挟み込む様に岩山の連なりが延々と続いている。全ての自然や人々の営みが、ワディという悠久の年月をかけて侵食され、大きく削り取られて形成された大地の中で繰り広げられているわけだ。
現在、ワディ・ドアン一帯には80~100の集落があり、総人口は5~7万人と言われているが、正確な統計は取れないらしい。というのも、当地域は多くの集落が分散して位置しており、人口密度が低い地域であること。また、戦争による避難や海外への出稼ぎなどにより人口が流動的であるといった要因からだ。
車で走っていると良くわかるのだが、ワディの涸れ川の縁から岩山の絶壁までの合間に日干しレンガ作りの建物が密集して集落を形成している。そして、それら集落同士の距離が何キロも離れている。
涸れ谷沿いに車を走らせ、時折アハマドお勧めの撮影ポイントに差し掛かっては、車を降りて遠くに広がる茶色い集落やナツメヤシ林を写真に収めた。そうこうしている内に、ある集落に辿り着いた。ルバト・バシーンと呼ばれる村だ。これまでは外から村々の外観を撮影していただけだったが、ここでは実際に村の中に立ち入るとのことで胸が高鳴る。
車を降りて、まず斜面に沿って建ち並ぶ日干しレンガの建築群に目を奪われた。その手前、村の入り口辺りの開けた通りを車や村人たちが行き交っている。右に目をやると、羊や山羊の何頭かが口先を地面に擦り付けて何か食べものがないか探している様子だった。その辺りにカラフルなビニール袋やペットボトルなどのゴミが大量に散乱していて気になった(元JICA海外協力隊の環境隊員だけに)。
左に目をやると、頭にシャールを巻き、浅黒い肌に髭を蓄えた男性が羊を連れて木陰にしゃがみ込み、その後方で全身黒い毛で覆われた(目と口の周りだけ白い)ロバがロープで繋がれ静かに立ちすくんでいる。その「ザ・村人」然としている佇まいにたまらず写真を撮らせてもらった。
アハマドやラドファン、ツーリストポリスの男性たちと連れ立って村に入ると、いきなり辺りが騒がしくなった。ちょうど休み時間に入ったのだろうか。村の入り口に面した学校の青い門戸から子ども達が雪崩出てきていた。多くが男の子で大半が白いワイシャツを来ている。どうやら男子校のようだ。
「あ、これはやばい・・・(苦笑)」と、これまでの中東滞在の経験から直感した。校舎前で友達同士でふざけ合っている子もいれば、お菓子を買いに商店の方に歩き去っていく子もいる。その中に、甲高い声を張り上げて手を振りながらこちらに駆け寄ってくる子も。
普段の生活の中で出会うことがほぼないであろう「謎のアジア人」が目の前にいることに好奇心メーターが振り切れている様子で、「僕の写真を撮って!撮って!」と、各々が目の前の子を押し退け、次の瞬間には押し退けられながら、我こそはとカメラの前に躍り出てくる。
「分かったから皆んな集まって!」と、お決まりの台詞で子ども達の集合写真を撮る。そこで満足して去っていく子もいれば、「もっともっと!」と食い下がってくる子もいる。そういった場合は仕方がないのでピンで撮影する。
特に学校など子ども達がたくさん集まる場所では、こういったことは一度では終わらない。第2波、第3波と「好奇心の波」が押し寄せるのだ。この終わらぬアラブの子どもウェーブに、煮えを切らしたラドファンが「もう終わりだ!終わりだ!」と叫び、子ども達を追い払って強制終了する。この一連の流れがデジャブ過ぎる。
「ドミノ」を通して観る私たちの人生
ようやく周囲の子ども達が去り、自分達の周囲に一様の静けさが戻った。微笑むアハマドとやれやれといった様子のラドファンらと共に木漏れ日が落ちる村の通りを進み始めた。
通りに面した小さな商店の階段に男達が腰掛け、ここでもロバが静かに立ちすくんでいる。ちなみに、ロバはその物静かな佇まいからは想像できない程、奇妙で面白い鳴き声をしている。それが個人的にはギャップ萌えだ(笑)
商店のカウンターでは、先程の子ども達だろうか、お菓子を買うや否やすぐ封を開けて口に運び、あっという間に食べ終わった。
通りを少し進むと小さな広場に差しかかった。そこにタープを張って日陰を作り、地面に野菜や干し魚を並べて売る露天商達。乾いた椰子の葉を箒がわりにして魚に集ってくるハエを払っている。
「○□△□△!!」。露天商の奥、屋根のある建物の中から何を言っているのか分からないが、大声で唸る男達の太い声が聞こえてきた。中を覗くと、何ヵ所かに分かれて、数人ずつが車座になって、考え込むかの様に目の前の盤上を睨みつけ、何かを閃いたかの様に声を張り上げ、牌の様なものを盤上に並べていく。
「これは何の遊びだろうか?」と不思議そうにその様子を眺めていると、「これはドミノだ。イエメンでは定番のボードゲームだよ!」とラドファンが教えてくれた。
ドミノと聞くと、小さなブロックを並べ立てて倒して遊ぶ「ドミノ倒し」を想起するが、このドミノは「倒さないドミノ」だ。盤上の牌に記された数字同士がつながる様に手持ちの牌を置いていき、いち早く無くなった者が勝ちという至極単純なゲームの様だ。ゲームの種類も複数存在する様で、ご当地ルールもありそうだ。
おっさん達の白熱ぶりに思わずカメラを向けると、真剣勝負に水を刺されるのが嫌だったのか「写真を撮るんじゃない!」と憤慨するおじさんもいてたじたじだった。
自分自身、学生時代はゲーマーで、時間を忘れて四六時中テレビゲームに明け暮れることも多々あった。だがいつからだろうか、大人になり何か遊びに夢中になり没頭することは無くなった。未だ戦時下にあるイエメン。田舎の片隅でドミノに熱狂するおじさん達は、一日一日を謳歌している様に見えた。
戦時下の国や地域では、先を見通して生きるこが難しい場合が往々にしてある。結果、数年先、数ヶ月先、場合によっては先一週間と、短い時間軸で人生を捉え毎日毎日を生き抜くことに注力せざるを得ない。
一方、日本の様に平和で安全、且つ医療水準が高い国では、何十年も先の未来がある程度見通せる。それ故に「将来に備える」ことが当たり前となり、若いうちから一生懸命働き、お金を貯め投資をし、やってくるであろう「不確定」な老後という未来に備えて意識的/無意識的に何かを抑圧しながら、今を生きている。
紛争の影響が色濃い地域で、いつ何が起こるか分からない状況下で戦々恐々としながら、今を生きることしかできない状態は不幸だと感じる人は多いだろう。一方、日本など政情が安定している国において、「未来に備えるために、現在を消費する生き方」が幸せだと断言できるだろうか。
白熱のドミノ会場を離れ、村沿いに伸びる通りをさらに進んだ。全身真っ黒なアバヤを纏った子連れの女性3人組とすれ違いおもむろに振り返ると、女性(恐らく母親)と手を繋いで歩いていた男の子も振り返りお互い目があった。小さな商店に立ち寄ると、山積みにされた大量の乳香から独特の甘い香りが漂っている。
ふと路肩に全体を薄茶色のカバーに覆われた車が駐められているが目に入った。そのカバーは風雨に晒されてできたであろうシミが所々にあり薄汚れていた。また、車体の上に木々の枝葉が伸びてきている様子から、その車が長らく動かさることもなくこの場に駐め置かれていることが観てとれる。
「これが誰の車か分かるか?」と、急にアハマドが問いを投げかけてきた。「いや、さっぱり分からん。ただの古びた車だろう」としか思わなかった。するとアハマドが早々に(もう少し勿体ぶっても良かった気がするが)答えを教えてくれた。「アブ・オサマの車だ!」。
一瞬、????が脳裏に踊った。「アブ」はアラビア語で「父」を意味する。「オサマ」は人物名だ。つまり「アブ・オサマ」は「オサマの父」という意味になる。アハマドはきっとイエメンの著名人のことを言っているに違いない。つまりオサマという名で思い当たるのは・・・。
ここまで聞いてピンときた人もいるだろう。オサマ・ビン・ラディンのことである。2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロを首謀したとされるイスラム過激派テロ組織アルカイダの指導者だ。この事件もいろいろと曰く付きの様だが。
彼自身はサウジアラビア出身なのだが、彼の父であるムハンマド・ビン・ラディンは、ここルバト・バシーン村出身で、かつてサウジで建設業により財を成した人物だ。彼らもまた海外に移民して莫大な富を得たハドラミーの一族なのだ。最後にちょっとしたイエメン雑学を得て村を後にしたのであった。
野菜や魚介、雑貨に羊!?なんでも揃う「曜日市」
あっという間に2日間のワディ・ドアン滞在を終え、次なる目的地であるムカッラーに向かう朝が来た。個人的にワディの雄大な景観や時間がゆったり流れる田舎の雰囲気が気に入っていただけに後ろ髪を引かれる(引く程の毛髪はない)思いだったが、一方でアラビア海に面する開放的な港町への期待も膨らんでいた。
この日は水曜日。ちょうど道中の市場で「曜日市」が開かれる日だった。「曜日市」とは、字の如く曜日ごとに開かれる市場で、毎週同じ曜日に同じ場所で開かれ、曜日ごとに開かれる場所が異なる。そんなわけで、早朝にホテルを出発し、曜日市を経由してムカッラーを目指すことになった。
朝日が敷地内に差し込み始め、まだ辺りに早朝の涼しさが残る頃ホテルを出発した。次第に強くなる日差しを背に受けながら真っ白なアルファードが真っ平らな岩山を疾走し、ワディの谷底に向けて一気に坂道を下っていった。
谷底に到達し、そこからしばらく涸れ川沿いに車を走らせていると、前日も通りかかった広場の様に開けた場所に差し掛かった。そこら一帯はナツメヤシの木々が密集して植生しておらず、ワディの両岸からアクセスしやすそうな場所だった。
昨日は人気がなく閑散としていたが、今日はまだ朝早い時間だというのに、そこらじゅうにピックアップトラックやバンなどの自動車が無造作に駐められ、大勢の男達が行き交っている。車を降りて奥まで歩みを進めると、広場の中央を涸れ川に沿って通りができ、その両側に様々な露天商がズラッと立ち並んでいた。
何が売られているんだろうかと、人がひっきりなしに行き交う狭い通りを歩いた。アハマド、ラドファン、ムハンマド、そしてツーリストポリスの男性を連れ立って進む。ただ、人が多過ぎて油断するとすぐ彼らとはぐれそうになる。
その度に、既に自分の世話役と化していたラドファンが「おーーい!ユーセフ。こっちだぞー!」と大声で呼び止められている気がしたが、周囲が騒がし過ぎてよく聞こえない。自分は自分で、軒を連ねる露天商が気になってしょうがない。
野菜、魚介類、日用雑貨、フレッシュジュースと多種多様な商品が売られており、屋外レストランもあり食事までできる。自分もついつい財布の紐が緩んで何か買いたくなり、お土産用にとご当地デーツを購入した。
さらに、この市場で目を見張ったのは、家畜の売買も行われていたことだ。露天商が軒を連ねる通りとは反対側の広場に行くと、そこには子羊や小山羊を腕に抱えたり、何匹もロープで繋いで引き連れている男たちやそれらを買いに来ているであろう人々で入り乱れていた。
恐らくお互いに交渉しあっているのだろうが、一見するとごちゃごちゃに混ざり合っている屋外フェスの様にしか見えない。その大勢の男たちの足元で「メェーメェー!」と子羊や子山羊が鳴いていた。ドナドナである。
曜日市は、ワディ・ドアンの様に集落が離れて点在する地域では非常に便利な仕組みだろう。日々の生活で必要なものが毎週同じ曜日に同じ場所に行けば購入できる。日本でいう決まった曜日に商品を配送してくれる生協やパルシステムといった感じか。
興味深いものを見つけてはあっちこっち行ったり来たりしていたせいか、流石に痺れを切らしたといった様子でラドファンが呼びに来た。「世話役」のラドファンにとっては、直ぐフラフラとどこかに行ってしまうと客に対して気が気ではないだろう。「これは、申し訳ないことをした・・・」と内心反省しつつ皆が待つ車に戻るのであった。
涸れ谷を抜け大海原を目指す
アルファードがワディ・ドアンの涸れ谷を離れ、真っ平な峠道を南へ向かって走り始めた。ハドラマウトの内陸部とアラビア海沿岸部を隔てる荒涼とし大地がひたすら広がる中を、ムハンマドが悠に100キロを超える猛スピードで運転している。時折、大量の物資を運んでいるであろう大型トレーラーとすれ違い、時に追い越していく。
一方、車内ではスターリンクでネットに繋ぎYouTubeでイエメン人歌手やバンドの楽曲のメドレーを流れている。音楽に合わせて、時折ハンドルから手を離してはノリノリで手を叩くムハンマド(危ない!笑)。その中でも定番はイエメン系ユダヤ人バンド「A-WA」のハビーブ・ガルビー(「私の心の愛する人」の意)だ。
ちなみに、現在のイエメンは99%がムスリムと言われているが、かつてユダヤ人も多く暮らしていた。しかし1948年にパレスチナの地にイスラエルが建国され、1949年から1950年にかけてイスラエルにより実施された「魔法の絨毯作戦」なるもので、イエメンで暮らしていたユダヤ人の大半がイスラエルに移民した様だ。
イエメンとユダヤにアイデンティティを持ちながら、現在イスラエルで暮らしているイエメン系ユダヤ人たち。フーシ派がイスラエルへミサイル攻撃を行い、それに対しイスラエルやアメリカがイエメンへ空爆を行うといった状況をどの様な心持ちで観ているのだろうか。
峠道に入って一時間程経ったのだろうか?高速で車を走らせているはずなのに、車窓の先に広がる景色にほぼ変化が無いため、あまり前に進んでいない様な、時間が経過していない様な、妙な錯覚を起こす。
変わり映えしない景色をただぼーっと眺めていると高速道路のパーキングエリアの様な開けた場所に到着した。どうやらハドラマウト沿岸部に入る前の検問の様だ。ワディ・ドアンに入る時の検問で手間取ったので若干心配していたが、それも取り越し苦労で今回は特に問題なく通過できた。
するとここへ来て、何やら迷彩服の軍人?と思しき色黒の男性が近づいてきて車に乗り込んできた。「え!?ここからは軍人がエスコートに付くのか?」と思ったのだが、彼もまたツーリストポリスだった。ワディ・ドアンを出てムカッラーに入るので人員が入れ替わったというわけだ。
検問を境に道は一気に下り坂となり、くねくねと曲がりくねったアスファルト道路が砂色の岩肌に沿って這う蛇の様に延々と遥か先まで続き、大気中を舞う砂塵により遠景が霞んで大地と空の境目が溶けあっている。
ここから先はあっという間で、気づいた頃には、商業ビルが建ち並ぶアラビア海沿岸の複数車線ある幹線道路を走っていた。時折、3人乗りのバイクと並走する形になり、カメラを向けるとイエメン人の若者達が運転しながらもこちらにポーズを決めてきた(危ない!笑)。3人乗りでも定員オーバーなのだが、時に5人乗りで走る強者もいる。
大らかというか、カオスというか。海外に出ると交通事情が日本と大きく異なり面食らうことが多々ある。仮に国際運転免許を持っていたとしても、中東などで車を運転する自信は皆無だし、そもそも運転したくない(笑)
ちなみに、これまで訪れた国の交通事情で最も衝撃を受けたのは2017年10月にロヒンギャ難民取材で訪ねたバングラデシュだ。現地人の話では、首都ダッカにおいて渋滞が一時緩和されるのは早朝の4時から7時頃まで。つまり、それ以外は常に渋滞しているということだ。また、通りを走る自動車の多くがバンパーの様なものを車体の周囲に取り付けている(まるでミニ四駆)。
それを不思議に思っていたのだが、外装が「ズタボロ」の市内線バスに乗車していた時にその理由が分かった。大通りで大渋滞にハマり完全に動きが止まっていた時、そのバスの運転手が痺れを切らして、バスをゆっくり動かし始めた。そしてバスの車体で「そっと」前のバスの車体を押したのだ。「メキメキッ」と車のフロントが歪む様な嫌な音がした。
「こりゃ、バンパーを付けてないと車体がズタボロになるわな・・・」と、至極納得したのであった(笑)。日本であれば、ほんのちょっと接触しただけでも警察を呼んで対応する必要があるが、バングラではそんなことお構いなし。人混みをかき分けて歩くかの様に車も運転するのだ。
世界中を旅していると、様々な場面で地域毎の文化や風習の違いに触れることが多々あり、点と点が繋がる様な気づきもあって面白い。それ故、話が脱線しがちになるのであった。
アラビア海の波音や潮風を感じながら
朝早くにワディ・ドアンを出発してかれこれ3時間。時間もお昼頃になっていたのでアラビア海沿岸のレストランで昼食を摂り、その後、宿泊先のホテルへと向かった。それにしても、昼食時のおじさんたちの食べるスピードの速さには驚くばかりだ。美味しい料理から一瞬にして無くなっていく。
レストランから車で南西へ約20キロ走ると、3~5メートルはあるだろう高いコンクリート塀に覆われたホテルに到着した。ここでもクラクションを鳴らして係員にゲートを開けてもらった。そのゲートはこれまでのホテルと違って自動開閉式の巨大な鉄製のスライド式扉だった。
敷地内に入ると、そこには広大なアスファルトの駐車場が広がり、ポツポツと所々に車が駐車されている。ひとまずアルファードをホテルのエントランス前ににつけて荷物を下ろし、X線検査機のベルトコンベアーに乗せ、ホテル内に入った後再び受け取った。これら一連の流れだけ見ても、他のホテルには無いセキュリティーレベルの高さを感じる。
ホテルロビーの広間には、ガラスの円形テーブルを囲む様に大きな黒い革張りのソファーが並べられ、その真上でシャンデリアがオレンジ色の光を放っている。この伝統的というよりは現代的なインテリアのホテルの名は、ラダマ・ムカッラー・リゾート。沿岸都市ムカッラーの東郊外に位置する高級ホテルだ。
このホテルには、広いセミナールームなどの設備もあり、各種団体により会議やイベントなどが催されることもある。実際、ホテル到着時には、テレビカメラを始め撮影機材を携えたメディア関係者がロビーに大勢たむろしているところに出くわした。聞くとことによると、この日ホテルで何やら政治的な会合が開かれていたそうだ。
「ここのホテルは自分たちガイドチームによくしてくれるんだ!旅行客を連れてくる代わりにガイドは無料で宿泊させてくれる」と、こっそりアハマドが教えてくれた。戦時下にあるイエメンにおいて、ツアーガイドとリゾートホテルなど戦争の煽りをもろに受ける者同士で持ちつ持たれつの関係ができている様だった。
ひとまずチェックインを済ませて4階の客室へ向かった。フロアに着くと、深紅のカーペットの通路が奥までまっすぐ伸び、等間隔を空けて客室のドアが並ぶ。その内のひとつを電子カードキーで開けて中に入った。
客室に入ってまず視線に飛び込んできたのは、大きく快適そうなキングサイズベッド!はもちろんのことアラビア海だ。一旦荷物を脇に置いて大きな窓を開けてテラスへ出た。快晴の空の下、青とエメラルドの中間色の様な大海原がどこまでも広がっている。
極めて乾燥した内陸部のワディの気候とは打って変わり、アラビア海からじっとりと湿気を帯びた潮風が吹きつけ、岸辺に繰り返し打ち寄せる波の音が聞こえる。一階の中庭に視線を落とすと、そこには水が抜かれたプールがあり、その中をデッキブラシで掃除するスタッフの姿があった。それらの景色や空気感が初夏の熱海を彷彿とさせた。
このアラビア海の遥か先にインドや東南アジアの島々が浮かんでいるのだろう。かつて、この広大なアラビア海やインド洋を介した海上交易によりイエメンは栄え、「幸福のアラビア」と呼ばれていた時代があったのかと思うとなんとも感慨深い。
自身が海を眺めながらおセンチメンタルな気分に浸っていると、スマホにアハマドからメッセージが届いた。「ユーセフ何してるんだ?ひと段落したらこっちの部屋へ来い」。
何事かと思い、数部屋隣のアハマドたちの部屋へ行くと、既に始まっていた。海辺のカートパーティーが(笑)。テラスにマットレスを敷いて座り、塀にもたれかかって口をモグモグと動かしている。海の波音を聞き、潮風を感じながらカートを嗜むのもまた乙なものだろう。
その時既におセンチな気分は雲散霧消し、ここへ来てカート中毒症状が出始めていたユーセフもまた、彼らに混ざってカートの葉をむしり粛々と噛み始めるのであった。イエメンにいながら日本を視るために。
<続く>















