*イスラエル・パレスチナ取材日記一覧
今年のイスラエル・パレスチナ取材日記の2本目です。今回もかなり長めな内容となっておりますが、お暇な時に是非ご一読ください。
ここ最近、愛媛大学ミュージアムでの展覧会や講演会などで忙しくしておりました。また現在クラウドファンディングの準備も行っております。入植被害が深刻化しているヨルダン川西岸地区マサーフェル・ヤッタで活動するパレスチナ人やイスラエル人を支援するために資金を集める予定です。ひとまず利用するプラットホームはFor Goodにしました。
ただ、今イスラエルとイラン間のミサイルやドローンなどによる攻撃の応酬で中東の状況が悪化していますが、なんとか7月中には公開できたらと思っています。またご協力の程よろしくお願い致します。
それに合わせて各地で報告会やイベントなどを実施して広報に繋げたいとも思っています。何か企画してくださるという方や心当たりのある方はDMもしくはこちらよりご連絡ください。メディアの方の取材も大歓迎です。
7月からは、毎年恒例のトウキョウドキュメンタリーフォト2025や写真と絵画展示「パレスチナとシリア、戦争と平和とこどもたち」も始まります。また、愛媛大学ミュージアムにてイスラエル・パレスチナに関する展覧会も開催中です。ご都合つきましたら是非そちらにも足を運んでみてください。
イヤールさんの活動パートナー、サレムさん

イヤールさんと共に再びやって来たトゥウェニ村。ここは、ヨルダン川西岸地区(以降、西岸)の南端に位置するマサーフェル・ヤッタと呼ばれる地域にある小さな集落の一つだ。小高い丘が連なる地形に石造りの家々が立ち並び、斜面の所々に人の手で彫られた洞窟が見える。田舎特有の静けさが漂う村では、時折モスクからアザーン(イスラム教における礼拝の呼びかけ)が流れ、お祈りの時間になったことを告げていた。
トゥウェニ村に隣接して、アル・ラキーズ村やウンム・ファガラ村といった小さな集落もあるのだが、それぞれの村で暮らすパレスチナ人の多くは家族や親戚同士と近い関係にあり、日々お互いを訪問し合うなど親族の結びつきを大切にしている。また村人の多くが羊の放牧や農業を生業にし、自分達が生活する上で必要なだけの糧を得る慎ましやかな暮らしを送っている。
一見すると長閑な暮らしが送られている様に見えるが、村々の周囲の高い丘の上にはマオンやアビゲイルといった名前のイスラエル人入植地(以降、入植地)が存在し、それら入植地の周辺に前哨地(イスラエル政府非公認)と呼ばれるプレハブ小屋の様なものがパレスチナ人集落を取り囲む様に建てられている。
日夜そういった前哨地から過激なイスラエル人入植者(以降、入植者)がパレスチナ人の生活圏にやって来てはありとあらゆる嫌がらせや暴力行為に及んでいた。
1967年の第三次中東戦争でイスラエルがアラブ諸国に大勝して以降、ヨルダン川西岸地区を占領下に置き、元々パレスチナ人をが暮らしていた土地にイスラエル人の街(入植地)を建設してきた。現在こういった入植地はヨルダン川西岸地区全体で300以上存在し、そこに70万人以上が暮らしていると言われている。
イヤールさんは、この占領や入植被害の絶えないマサーフェル・ヤッタに足繁く通いパレスチナ人支援を行なっているのだが、今回トゥウェニ村で暮らす彼の活動パートナーを紹介してくれることになった。
イヤールさんの年季の入った四駆車でトゥウェニ村の急な路地を上がっていき、あるお宅の前に到着して電話するとと、奥からがっしりした体格で落ち着いた雰囲気のあるパレスチナ人青年が現れた。
「マルハバ!キーファック?(こんにちは!調子はどう?)」とアラビア語で声をかけると、寝起きの様な低いこもった声で挨拶を返してくれた。時間を見ると朝9時頃。夜更かし傾向にあるアラブ地域ではまだ朝早い時間帯だった。
彼の名前はサレム・アル=アドラ(30)。結婚して奥さんと2人の息子と共に実家側に建てた自宅で暮らしている。以前、彼は建築土木の仕事でイスラエルに働きに行っていたが、他の多くのパレスチナ人と同じく10月7日を機に仕事を失った。
現在彼はマサーフェル・ヤッタにやってくる活動家やボランティア、ジャーナリストの通訳やガイドなどの活動を中心に行なっている。彼自身もまた活動家であり、SNSを使って入植被害の実態を発信している。
イヤールさんが初めてここトゥウェニ村を訪れたのは2012年頃。それ以来、サレムさんとは数年来の付き合いらしく、イヤールさんがマサーフェル・ヤッタで活動する際には、サレムさんが彼を各地のパレスチナ人宅に案内するなどガイド役を担っているとのことだった。
イヤールさんはアラビア語が堪能で、現地のパレスチナ人達ともアラビア語で流暢にコミュニケーションを取る。その様子から、現地の人々と良好な関係を構築する上で「同じ言葉を話す」ことの重要性を改めて認識した(自分も語学力を磨かねば)。
ちなみに、言語学的にアラビア語とヘブライ語は姉妹言語にあたり、語彙や文法にも似ている部分が多い。その為、どちらかの言語が母国語の者はもう一方の言語も比較的習得しやすいようだ。
当初、今回の現地取材ではイヤールさんの活動に同行させてもらうつもりだったのだが、急に重要なミーティングが入ってしまったとのことで、彼はすぐエルサレムへ向かってしまった。この様に予定が急に変わるのは現地取材あるあるで慣れたもの。
そんなわけでサレムさんにお世話になり、2週間弱トゥウェニ村に滞在しながら各地を回って入植被害の現状やパレスチナ人の暮らしを取材することとなった。
映画「ノーアザーランド」とアル=アドラ家

現地取材から少し話がそれるが、現在、日本全国で映画「ノーアザーランド」が上映されている。今年のアカデミー賞において長編ドキュメンタリー賞を受賞した話題の映画だ。映画の舞台はマサーフェル・ヤッタで、自身が取材で訪れたまさにその場所だった。
まだ映画を観ていないという人に簡単に映画の概要を説明すると、イスラエルによる占領や入植被害が深刻なマサーフェル・ヤッタにおいて、パレスチナ人活動家のバーセル・アル=アドラさんとイスラエル人ジャーナリストのユヴァル・アブラハムさんが現状を世界に伝える為、カメラ片手に共に現場で奮闘する姿を描いたものだ。
この映画については、昨年現地を訪れた際に知り合った監督の一人であるラヘル・ショールさんから「マサーフェル・ヤッタのドキュメンタリー映画を作ったのよ!」と聞いてはいたが、まさかアカデミー賞まで獲るとまでは思っていなかったので受賞のニュースを見た時は驚きだった。
映画本編に関しては今年の現地取材から帰国後、日比谷の映画館で初めて観たのだが、映画の中に現地の友人や知人、見覚えのある通りや風景が映し出されており勝手に感慨深かった。滞在中にお世話になったサレムさんも映画の中で時折ちらっと見切れていた。
サレムさんは名前からも察する通り、映画の主人公バーセルさんの兄弟であり、アル=アドラ家の長男だ。彼らの父親であるナセル・アル=アドラさんは若かりし頃、活動家として第一線に立って活動していたそうだが、現在は村で小さなガソリンスタンドを営みながら暮らしていた。

今でこそトゥウェニ村はイスラエル人や外国人の活動家やボランティアが足繁く通う場所となっているが、活動家が初めて来たのは1999年のことだとサレムさんは話す。
それから2003年や2004年頃になると、Operation Doveを始めとしたNGOの人達が活動拠点を探しに父の元にやって来たんだ。当時から入植者による問題があって、イスラエルや海外の活動家に対しても不安や恐怖を感じていた。だけど父は彼らを受け入れて場所を用意することにしたんだ。始めの内、活動家達は小屋や洞窟を拠点に活動していたよ。
彼らがマサーフェル・ヤッタで活動する様になって、それまでただ攻撃をしてくるだけだった入植者が活動家を恐れる様になり、多少対話ができる様になった。そうして彼らの活動の成果が見える様になっていったことで、村全体で活動家を受け入れていく様になったんだ。
その話を聞いて気づいたことは、この地では世代を超えて暴力が引き継がれている一方で、世代を超えてイスラエル人とパレスチナ人との友好関係が引き継がれているということだった。

ただ、こういった関係性や方向性は聞く人によっては不快感を抱くものかもしれない。そう思うのは、日本に帰国後、各地で講演会を行う中で参加者の方から頂いた質問や意見がきっかけだ。
どんなに良いことをしているユダヤ人であっても、イスラエルという国で暮らしている時点で占領に加担しています。彼らの活動は目先の問題を解決する上では大切かもしれませんが、本質的な問題解決には向かっていないと思います。
その意味するところは、1948年のイスラエル建国の際に起きた中東戦争により、多くのパレスチナ人が故郷を追われ、その土地を占領する形でイスラエルという国家が存在しているためだ。それは歴史的事実であって、自分自身そう思う人達の考えは理解できる。
ただ、個人的な考えを言うならば、何十年も時間が経過してしまった紛争問題を根本まで遡って解決することは極めて難しい。現実的な路線でどこかで折り合いをつけて和平を結び、問題を解消していくという方向性しか無いと思っている。何より今となっては、自分自身、イスラエルにもパレスチナにもたくさん友人がいるので、双方にとってベストとまではいかなくともベターな方向性を模索したいと思っている。
イスラエルとパレスチナの問題に限らず、あらゆる国際紛争において言えることだが、和平はお互いの妥協からしか生まれない。そして妥協を許さない極端な思想を持った勢力はいつの時代にも常に一定数存在する。そして和平が結ばれそうになると武力紛争が再燃し、和平が頓挫するということが繰り返される。
さらに、戦争状態が維持されることを都合が良いと考える国内外の勢力が、その構造を温存させるために陰で過激な行動を起こす勢力に資金提供などを通してテコ入れするなど、国際社会における様々な利害関係や思惑の中で複雑な力学が働いているのが現状だ。
「10月7日」以降マサーフェル・ヤッタで深刻化する入植被害

かなり話がそれてしまったが、再び現地取材に話を戻す。
2023年10月7日以降、ガザ地区だけでなくヨルダン川西岸地区における状況は悪化の一途を辿り、現地のパレスチナ人の暮らしを脅かしている。現地の人々の話や自身の感覚的にも、前回訪れた時よりも入植被害が拡大していることが分かった。それは国連が発表しているデータからも見て取れる。
昨年現地を訪れた時は数日間の滞在だったが、イスラエル人活動家と共にパレスチナ人家庭をホームステイして過ごした。その中で入植者による様々な被害について見聞きした。
家屋や車の破壊、オリーブの木の伐採、井戸水の汚染、暴言や暴力などといった被害がマサーフェル・ヤッタに点在する多くのパレスチナ人集落で日常的に発生していた。こうした被害が今年に入り、入植地の前哨地が増えるに伴ってさらに拡大していた。
現地滞在中、サレムさんの案内でトゥウェニ村と隣接するアル・ラキーズ村やウンム・ファガラ村などを訪れ、そこで暮らす村人に話を伺った。

アシュラフさん(42)。目尻から放射線状に伸びた深い皺と和やかな表情が印象的な男性だ。アル・ラキーズ村で家族と共に暮らす彼は、他のパレスチナ人と同じく羊の放牧を生業としていた。
晴れた日には柵の中で飼育している何十頭もの羊を解き放ち、息子たちと一緒に群れを管理しながら放牧していた。滞在中、彼のお宅には足繁く通い交流を深めた。
ある日、彼らが羊の放牧をしている様子を撮影していると、遠くの丘の上に他の羊の群れが小さく見えた。「あれは入植者たちだよ。ああやって毎日自分たちの家の近くまで放牧にやってくるんだ」。アシュラフさんが遠くの羊の群れを見やりながら不満そうに言った。
入植者が放牧している丘は、以前アシュラフさんも放牧を行なっていた場所なのだが、入植者により丘の上に前哨地が建てられて以来、その近辺で放牧することができなくなったと言う。もし前哨地がある辺りまで放牧に行こうものなら入植者との衝突や問題に発展してしまう。

一昔前は向こうの方(前哨地の辺り)まで羊の放牧に行っていて、その時にアビゲイル入植地(前哨地の奥)から放牧にやって来る入植者と顔を合わせることもあった。当時は入植者と挨拶を交わしたり、5分~10分くらい世間話をすることだってあった。だが今この辺りを彷徨いている入植者達はただ暴力的で話ができない。10月7日以降からそういった連中が増えた。
彼の話を聞くと、前哨地を建設してそこで生活する入植者は、以前から存在し街となっている入植地で暮らす人とはまた異質な存在である様に感じた。「そもそも彼らは一体どこからやって来るのだろうか。土地を収奪する為にお金で雇われたならず者なんじゃないだろうか」。そんな疑問や想像が脳裏に浮かんだ。
この様にして、パレスチナ人が暮らす土地の周囲にある日突然前哨地が建設され、パレスチナ人が自由に放牧できる土地が狭められている。仮に前哨地がある辺りに行かずに自宅近辺で放牧していたとしても、入植者があえてパレスチナ人宅の方まで放牧にやってきて農地を荒らしたり暴言を吐くなどの嫌がらせをしていくという。

こうした状況に輪をかける様に別の問題も発生していた。それは「日照り」だった。
例年、マサーフェル・ヤッタでは1~2月の冬場に雨が多く降る。その為、この時期は雨水により丘陵地帯に雑草が繁茂し、放牧する際に羊の餌には困らない。しかし、今年に入って雨が全然降っていないと言う。それにより大地が乾燥し雑草があまり生えず、羊を養うには雑草が不十分となっていた。
その様な状況では雑草を求めてより広範囲に放牧する必要があるが、入植者による土地の収奪でそれもままならない。結果、自宅周辺の狭い範囲でしか放牧ができず過放牧の状態となり、羊に食べさせる餌を新たに買わざるを得ないといった問題が発生していた。
「うちでは50頭の羊を飼っているんだが、今は餌代だけで一日500シェケル(約2万円)もかかっているんだ」と不満を口にするアシュラフさん。彼の場合は今の所なんとか羊の頭数を維持できていたが、他のパレスチナ人の中には、餌代が嵩み羊を維持できなくなり、都度羊を売って得たお金を生計に充てざるを得ない家庭も多い様だった。
別の日に、アル・ラキーズ村からひと丘隣に位置するすウンム・ファガラ村にも訪れた。21家族(約200人)が暮らす小さな集落だ。その村の村長であるガーセムさんは周囲の丘を指差しながら言った。
あれもこれも前哨地だよ。ベングヴィル(現イスラエル国家安全保障相)の政策で2020年頃から入植者がたくさん来る様になった。イスラエル政府はパレスチナ人の村の周りに前哨地を建てて取り囲み、大きな牢屋を作っているんだ。そうやって連中は私達から全て奪っていく
この土地には1920年頃、祖母の代から暮らしている。私の家族は105年間ここで生活してきたんだ。私自身ここで生まれ育ったから他に行く場所など無い。
被害者が逮捕され、加害者が放免となるエリアC
アシュラフさんを訪ねた後、彼のお宅からより前哨地に近い場所で暮らすパレスチナ人を訪ねた。話を聞かせてくれたのはサイードさん(59)。子どもが15人もいる大家族の長で、小柄な体格に白い顎髭を蓄えた信心深い男性だった。
彼の自宅からおよそ100~200メール先の丘の上には小さなプレハブの様な前哨地が建ち、そのすぐ側の道路を時折バスや軍用車が行き交うのが見えた。
サイードさんに迎えられ、庭先を案内されながら家庭菜園や鶏小屋、パン窯などを見せてもらった。「全部彼の手作りなんだよ!」とサレムさん。農業を生業にしているサイードさんはDIY名人でもあった。
ちなみに、この地方のパンの焼き方は特徴的で、羊の放牧を生業にしている家庭が多いだけあって、パンを焼く時に乾かした羊の糞を燃料に使う。最初それを聞いた時は「え!糞で焼くのか!?」驚いたが、それが実際のところ美味しい。アラブのパンは平らな形が特徴だが、この地方のパンは焼き方によるのか、焼き上がった生地にはボコボコとした空気の層ができふっくら厚みがある。
一通り庭先を見せてもらった後、サイードさんに居間へ案内され、そこに敷いてあったアラブマットに腰を降ろした。すると彼の子ども達が小さなガラスコップに入った紅茶をトレーに乗せて持って来てくれた。アラブ地域では定番の砂糖がたっぷり入った甘い紅茶を啜りながら話を聞いた。
サイードさんは、近年だけでなくこれまでにも頻繁に被害に遭っていた。その被害は入植者によるものだけでなく、イスラエル軍や警察によるものもあったと言う。彼はこれまでに受けた被害について力を込めて話し続けた。
その話を隣に座ったサレムさんが通訳してくれた。
2011年のある日、昼間に彼が壊れた井戸を修理していると、イスラエル軍が自宅にやって来て修理しているのを止められた。理由は不明だが、それで仕方なく夜間に修理することにした。
2012年になると、今度はイスラエル警察が自宅にやって来た。彼らは庭先に置いてあった修繕用のセメント粉末に顔を押し付けられた。後にそれが原因で病気になってしまった。その時、罪状が不明なまま逮捕され、後ろ手に縛られて警察署へ連行された。
その後、弁護士が告げた罪状は「連行時にパトカーのドアの取手を壊した罪」だった。取ってつけた様な罪状により10日間勾留された後、請求された保釈金5000シェケル(約20万円)をボランティア団体が工面してくれてようやく釈放された。
そして2023年10月7日以降、毎日の様に入植者が自宅にやってくる様になった。入植者達は、自宅の庭に生えていたオリーブの木を切り倒し、家の窓を割り、電気ケーブルを切り、水道管を破壊した。
さらに、子どもや女性たちを撮影して怖がらせもした。夕食を摂っている最中に自宅周囲を覆っていたフェンスを切って侵入してきて、口論になったこともあった。
この様に入植者は現地のパレスチナ人に対して、器物損壊や不法侵入、恫喝などありとあらゆる犯罪を犯しているにもかかわらず罪に問われることはほとんどない。それは、イスラエル軍や警察は同じイスラエル国民である入植者を擁護する様に立ち回るためだ。
サイードさんのケースの様に、加害者である入植者が罪に問われることはほぼなく大抵の場合無罪放免となる。代わりに被害に遭ったパレスチナ人がでっち上げられた罪状により逮捕されてしまう。
マサーフェル・ヤッタを始め、イスラエル軍が治安と自治を管轄するヨルダン川西岸地区のエリアCと呼ばれる地域では、この様な理不尽な占領構造が常態化している。
現地取材をから帰国後の4月、サレムさんからサイードさんについて一報が入った。それはライフルを持った入植者に襲撃されサイードさんが右足を撃たれたというものだった。
病院に搬送され緊急手術を受けて一命を取り止めはしたが、右足を切除せざるを得なかった。その上、治療後に勾留されることとなった。さらに事件当時、銃撃を受けた父を搬送しようとした息子エリアスくん(15)は逮捕された。
ここでもまた被害者であるはずの父子が、釈放される為に10000シェケル(約40万円)を支払わなければならなくなった。その後、ボランティアや支援者がそのお金を工面しエリアスくんは釈放され、サイードさんもリハビリを経て退院することができた。
しかし、農業を生業にしている彼にとって右足を失うということはまともに働けなくなることを意味する。これからどの様に家族を養っていくのだろうか。取材当時、彼が話の中で諦める様に放った言葉が思い出される。
神は人間や動物を含む全ての生物が平和に暮らせる様にしている。だが、ユダヤ人による裁きを私達はどうすることもできない。
<続く>