*イスラエル・パレスチナ取材日記一覧
今年1月22日から2月13日にかけて、昨年に引き続き再びイスラエル・パレスチナ現地取材を行っていました。その当時の取材日記を時系列に沿って随時配信します。初回からいきなり長文になっておりますが気長にお読みください。
また4月12日に東中野で開催のイスラエル・パレスチナ取材報告会「マサーフェル・ヤッタ〜占領や入植と戦うパレスチナやイスラエルの人々〜」の参加申込も絶賛受付中です(締切4月11日23:59)。ご興味ありましたら是非ご参加ください。会場の地下一階にある映画館ポレポレ東中野にて映画「ノーアザーランド」も上映されております。報告会と併せて是非ご覧ください。
現地滞在中に時々Instagramのストーリーズに投稿していた動画のダイジェスト版も作成したのでそちらもご覧ください。イスラエルとパレスチナ双方の日常の様子が垣間見れるかと思います。
再びアンマンから陸路でエルサレムへ
今回も前回と同じくヨルダンの首都アンマンから陸路でエルサレムを目指した。早朝に国境のキング・フセイン橋行きのバスに乗り込みヨルダン側の国境施設へ向かった。そこで無事出国手続きを済ませて(手続き経路が分かり難い)、再びバスに乗り込み土漠が広がる緩衝地帯を抜けてイスラエル側の国境施設へ。
毎度のことながら、イスラエルの出入国審査は通過できるかできないか疑心暗鬼なわけだが、ひとまずパレスチナ人や外国人巡礼者と思わしき集団と一緒に列に並んで手荷物をX線検査機に通し、身体検査のゲートを潜ってパスポートコントロールへ。ここが鬼門で、問題なく通過するためには旅程や渡航理由などをうまいこと言う必要がある。
「うまいこと」というのは、旅行者然として辻褄が合わう様に係官の質問にスムーズに応答するということ。また、仮にパレスチナへ行く予定にしていても正直に「パレスチナに行きます」と言わないことが肝要だ。
6年ぶりのイスラエル・パレスチナ渡航(且つ10月7日以降)だったことと、現地のNGOスタッフの方に携帯端末やSNSもチェックされる可能性があると聞かされていたので、気をつけ過ぎて宿泊先やフライト予約などの情報を入れていたスマホまで手荷物と一緒にX線検査に預けてしまった。せっかく色々準備したにも関わらず、パスポートコントロールでうまく受け答えができずしどろもどろに。
係官にパスポートを突き返され「用紙に必要事項を書いて来なさい」と言われ、仕方なくペンを探して辺りをうろついていると、「アホな旅行客」と思われたのかそのフロアの監督と思しき人がやって来て2、3質問された後、「行ってよし!」ということで普通に3ヶ月の滞在許可を得ることができたのだった。怪我の功名(笑)
そんな失敗があったので今回はしっかり準備して来ていたのだが別の問題が発生!なんと2025年1月1日からイスラエル入国に際し、渡航3日前までに電子渡航認証(ETA)というものの取得が必要になっていた。パスポートコントロールで自分の番が来たものの係官に「申請してまた来なさい」と言われてしまう始末。
これは出直しかと思っていたのだが、他にも自分と同じくETAの件を知らずに来ている人がちらほらいて、スマホや設置された端末で手続きを行なっていた。自分も彼らに習ってスマホをネットに繋いで手続きを行い、オンラインで申請費25シェケル(約1000円)を支払った。
「3日前までに申請」となっているのに大丈夫なのだろうかと心配になったが、再度パスポートコントロールに行くと大した質問を受けることも無くすんなりOKに。
パスポートコントロールを通過してエルサレムとヨルダン側西岸地区(以降、西岸)行きのバスが発着する広場へ出た。そこには先に通過したパレスチナ人達が手荷物を運んだり、売店で買い物をしたり、タバコを吸ったりしながら各々バスの出発を待っていた。
自分が赴くのはエルサレム。チケットカウンターでエルサレム行きの乗合バスチケットを買い、乗車して待つこと数十分。一路エルサレムに向けて出発した。
テルアビブでイヤールさんと合流
1時間程で乗合バスがエルサレム旧市街近くに到着。一旦エルサレムで一息つきたいところだったがそういうわけにもいかず、近くのスマホショップで現地のSIMカードを購入し、Rav-Kavカード(日本でいうSuicaの様な交通系カード)にお金をチャージ後、すぐ様トラムと鉄道を乗り継いでイスラエルの商業都市テルアビブを目指した。
なぜこんなに急いでいたかと言うと、午後にテルアビブでイスラエル人の方と合流する約束があった為だ。早朝7時前にアンマンを出発し、テルアビブに到着した時には15時過ぎ。約8時間かけてようやく目的地に到着した。
モダンな高層ビルが立ち並ぶテルアビブの街中を歩いて待ち合わせ場所となっているテルアビブ・ハシャローム駅へ。まだ約束の時間まで1時間程あったので辺りを散策することに。
駅構内に入るゲートでは手荷物のX線検査や身体検査が行われ、鉄道が発着するプラットホームには一般市民だけでなく、モスグリーン色の軍服を着て大きなリュックサックやアサルトライフルを担いだ若いイスラエル兵も行き交っている。
そうした様子は昨年と変わらなかったが、一つ目新しかったのは様々な場所に貼られた無数のステッカーだった。何かと思い近づいて見てみると、それは戦争で亡くなった兵士と思しき若者達の写真だった。
小腹も空いたのでひとまず駅構内でカフェラテとクロワッサンを注文してクレジットカードで支払い、レシートを受け取って見ると金額が21シェケル(約840円)。ちょっとした軽食でもなかなか高い。円安(1シェケル=約40円)も相待って改めてイスラエルの物価の高さを痛感したのだった。
そうこうしている内にイスラエル人の方との待ち合わせ時間になり回転ゲートを通って駅の外へ。電話で連絡を取り合いながら辺りを探しているとこちらに手を振る男性の姿が見えた。
彼の名前はイヤール・シャニ。白髪と白髭に褐色の肌、そして青い瞳が印象的な方で第一印象はかなり気さくでフレンドリーだった。彼と知り合ったのは昨年現地取材をしていた時で、知人の紹介で連絡を取り合っていた。
彼はイスラエル南部のベエルシェバを拠点に、個人でパレスチナ人支援をしているとのことで、彼の活動に同行したいと思っていた。ただ、昨年は奥さんが重病を患い大変な状況にあったため直接会うことは叶わなかった。後に奥さんは病気で亡くなってしまったという。
そして一年越しに彼と都合がつき、活動地である西岸南部のマサーフェル・ヤッタに連れて行ってもらえることになったわけだ。
初めてのキブツ滞在
彼と合流後、一緒に鉄道に乗って彼が暮らすベエルシェバ方面へ。移動中の鉄道車内で隣同士で席に座り、現在のイスラエルやパレスチナの状況に対する彼の考えや活動について話を聞いていたのだが、結構大きな声で「ガザのジェノサイド」や「イスラエルのパレスチナ占領」などの話をするので個人的にはやや落ち着かない心持ちだった。
というのも、周りの乗客がどういった政治思想をもっているかも分からず、若いイスラエル兵もたくさんいて、そうした人達が自分達の会話をどう聞いているのか気になってしまった訳だ(自意識過剰)。自分の心情をよそに周囲を気にせずはっきり物申すイヤールさんは真っ直ぐで「一切迷い無し」な様子だった。
その後、南部の駅で下車しそこに駐車していた彼の年季の入った四駆車に乗り込み、この日一泊させてもらう彼の友人宅があるキブツへ向かった。
キブツとは、ヘブライ語で「集合」を意味し、イスラエル国内に250以上存在する数百から数千人規模の共同体を指す。キブツでは農業や教育、医療など様々な仕事に従事する者がいるが、住民それぞれの労働により生み出される物やサービスをコミュニティー内で分配、共有するという社会主義的な特徴がある。1900年代初頭にロシアで迫害を受けていたユダヤ人がガリラヤ湖周辺に移住し自分達の共同体を作ったことがキブツの始まりと言われている。
到着したキブツは、通りがアスファルトで綺麗に舗装され、小さな一戸建ての家々や木々が立ち並ぶ自然豊かで閑静な場所だった。彼の友人が暮らすお宅にお邪魔すると、木造の屋内は間接照明で照らされキャンプ場のロッジに来た様な雰囲気が漂っていた。
一緒に暮らしている若者達も皆素朴で優しく、自分のことを快く迎えてくれた。各々がそれぞれ仕事をしていて、東洋医学、歌手、フォトグラファーとして多様な働き方をしながらこのキブツで共に暮らしている。ちなみにイヤールさんはマインドフルネス瞑想の指導者だ。
これまでは、テルアビブを始め都市部で暮らす人々と接することが多く、ユダヤ人に対してやや事務的でクールな印象を抱いていたのだが、イヤールさんを始めキブツや田舎で暮らす人々と会ってみてまた印象が変わった。そもそもどこの国においても人柄には個人差や地域差があるのは当たり前ではあるのだが。
たった一晩の滞在だったが、彼らの家庭料理を頂きながら他愛のない話をしたり、自宅に大きな中古の洗濯機を運び込むのを手伝ったり、イヤールさんが行う瞑想ワークショップへ参加したりと初めてのキブツ生活を体験することができた。
西岸南部マサーフェル・ヤッタへ
移動続きでかなり疲労が溜まっていたが、用意してくれた快適なベッドでしっかり就寝。早朝7時に起床して身支度を済ませ、イヤールさんと共にマサーフェル・ヤッタに向けてキブツを後にした。
マサーフェル・ヤッタは、西岸の南端に位置する丘陵地帯が広がる地域で、パレスチナ人の集落が点在しており、その多くが羊の放牧を生業として暮らしている。一方、ここ一帯はイスラエル軍が治安と自治を管轄するエリアCと呼ばれる地域で、軍事演習場に指定されている。
その為、パレスチナ人の居住は許可されていないとし、一方的な家屋破壊や強制追放が相次ぎ、イスラエル人入植地(以降、入植地)の拡大やイスラエル人入植者(以降、入植者)による現地パレスチナ人に対する暴力や嫌がらせが日常的に発生している。
同地域には昨年も訪れていて、その時はB’Tselemというイスラエルの人道系NGOの方に連れて来てもらい、現地でイスラエル人活動家の方々に同行。パレスチナ人家庭に数日ホームステイしながら取材を行っていた。
エリアCと呼ばれる地域は、イスラエル軍の管理下にあるが故に過激なイスラエル人入植者による問題が多発している一方で、それ故にイスラエル人活動家もアクセスし易くなっており、イスラエル人とパレスチナ人との直接的な関わりや交流が生まれる特殊な場所にもなっていた。そうしたことが個人的に印象に残っており、今回イヤールさんと共に再び足を運ぶことにしたわけだ。
西岸へは幹線道路の60号線を走ってイスラエル南部のベエルシェバ方面から入っていくのだが、高速道路の料金所の様なチェックポイントがあるだけで、明確にイスラエルと西岸を別つ明確な境界があるわけではない。また以前は、13万人以上のパレスチナ人が西岸からイスラエルに働きに来ていたそうだが、10月7日以降は治安上の理由から境界が封鎖され大半のパレスチナ人が仕事を失った。
イヤールさんの運転で曖昧な境界を越え目的地に向かう道中、なぜ彼がパレスチナ人支援を始めたのか尋ねると「活動を始めたのは2008年のガザ戦争がきっかけなんだ。パレスチナ人支援を行っているのは、これが人道や人権、不正義の問題だからだよ」と彼らしい率直な答えが返ってきた。
さらに彼自身の思いや今のイスラエルの状況について付け加える。
10月7日以降、皆は平和のために活動する私のことを「ドリーマー」と呼ぶ。だが全ては夢を見るところから始まる。夢を持たなければそもそも何も達成できない。夢があればいつかそこに辿り着くはずだ。
今必要とされているのは、国を愛し他者を尊重し誰もがこの地に自由に安心して暮らせることを望む新しいイスラエルのグループだと思う。今国を動かしているのはイスラエル社会のマジョリティではなく、過激で極端な思想をもったマイノリティーであることが問題なんだ。
10月7日のハマスによるイスラエル側への大規模奇襲攻撃以降、多くのイスラエル市民が多大なショックを受けトラウマを抱え、ハマスに対する恐怖や憎悪、そしてパレスチナへの嫌悪を深めていった。
その一方で「パレスチナ支援を行っているイスラエル人は、ハマスについてどう思っているんでしょうか?」。そんな疑問を知人から投げかけられたことをきっかけに、彼らの実際の心情が気になっていた。そこで思い切ってオブラートに包みながらイヤールさんに尋ねてみた。
私は実際にハマスに会ったことがないから正直なところ分からない。ただ、自分が活動している西岸の地域にハマス支持者はいないと思う。どちらかというと反ハマス的だと感じる。もちろんパレスチナの都市によって違うとは思うが。
仮に暴力的なハマスの人に会ったとしても、今起きている問題はその人物一人の責任とは言えない。より権力やお金を持っている存在が状況を動かしている。「ボタン」を押しているんだよ。
そう話すイヤールさんの口振りから、彼の視点は個々人を問題視するというよりも、今の状況を生み出している強大な権力構造に向いている様に感じた。また彼の話を聞いて、昨年ハイファでインタビューした元イスラエル兵で現在はパレスチナ支援を行っているイタマルさんの「システム」に関する話を思い出した。
しばらく車を走らせていると遠くに長く続く巨大な分離壁が目に入ってきた。イヤールさんはそれに目をやりながらまた語り始めた。
建設された分離壁は、一時的に自分達を守るかもしれない。だが本当の解決は壁を破壊することだと思う。そして互いに顔を合わせる必要がある。誰にも暴力の中で暮らしてほしくない。その為には自分の恐怖を乗り越えて隣人と話をしなければならないと思う。
丘陵地帯に旗めくイスラエル国旗を横目に車を走らせながら話し込んでいると、昨年も訪ねたイスラエル活動家の拠点がある村トゥウェニが見えてきた。
<続く>