*【申込受付中】4月6日開催!「イスラエル・パレスチナ、共存への道」森佑一取材報告会
テルアビブにあるNGO Breaking The Silence(BTS)のオフィスにお邪魔して活動している方々にインタビュー取材を行いました。当NGOは、第二次インティファーダ(民衆蜂起)を期に2004年にイスラエルの退役軍人により設立された団体です。
主な活動としては、パレスチナ西岸(以降、西岸)やガザ、東エルサレムなどで活動していた元イスラエル兵士たちの証言を集めて占領地の実態を伝えることで、社会の中にイスラエル政府の占領政策に対する問題意識や議論を巻き起こし、最終的に占領政策に終止符を打つことを目的としています。
今回こちらのオフィスで3名の方にお話を伺いました。3人目はBTSシニアマネジャーのベッカさん(35)。以前は教育ディレクターとして活動していました。
Q:いつからBTSで活動していますか?
2018年からBTSで活動しているのでもう6年になります。ここの前にも同じ様な活動をしていて、イスラエル人とパレスチナ人間の政治的な教育、特に占領政策に関する教育に携わっていました。
その前はもっと小さな団体で働いていました。その団体は占領地ではなく、イスラエル国内にいるユダヤ人やパレスチナ人に対する教育や政治活動にフォーカスした活動を行なっていました。
さらに、十数年前はGishaというガザ地区にフォーカスした人道支援系NGOで働いていました。24歳くらいからこういった活動に関わっています。
Q:BTSでの役職は何ですか?
現在はシニアマネジャーとして活動しています。BTSに入って最初の5年間は教育ディレクターとして活動していました。
現在の主な仕事は、占領下の西岸で活動していた証言者を集めることです。既に1400以上の証言者が集まっていて、それをリスト化して私たちのコミュニティを形成する取り組みを行なっています。
コミュニティ形成はとても重要なことです。というのも、元兵士たちは兵役中に似通った経験をしていて、それらをイスラエル社会の中で共有することで市民が現地の状況を理解する上で助けになります。
ガザや西岸で活動していた大半の人は、パレスチナの状況や自分たちがそこで行なっていたことに対して疑問や倫理上の葛藤を感じていません。多くの人にとってそれら疑問や葛藤は必要なものではなく、自身の内に仕舞い込んでいたり、少しの友人にしか共有したりしていません。
彼らは何かしら強い感情を感じていながらも、それを内に仕舞い込んで静かにしているんです。だから証言者を集めてコミュニティを作ることは社会的に意味があると思っています。それは政治的にも意味があることで、多くの証言者が集まることでより大きな声になります。
Q:現在の活動をするに至ったきっかけは何ですか?
明確なターニングポイントはありませんが、BTSで活動している人たちの多くが兵役中に厳しい経験をしていました。
私の兵役中の経験は、そこまで厳しくも劇的なものでもありませんでした。私が西岸で活動していた時は、入植者と兵士との間やパレスチナ人の扱いなどにおいてたくさんの衝突がありました。個人的に人権問題に関心はあったのですが、兵役中は自分自身の意識をそこに向ける必要性はありませんでした。
イスラエルでは兵役を終えた後に海外旅行に行くのが一般的でした。当時イスラエル人はインドや南アメリカに行くことが多かったんですが、私は他の人が行かない様なところに行きたかったんです。それで自分が惹きつけられるところに行きました。
そこでガーナに行ったんですが、その時はただの旅行者でした。ガーナではヨーロッパからの旅行者、白人にたくさん会いました。彼らはガーナに来て現地社会の学校や孤児院で働いて何か違ったことをしようとしている様に見えました。
その時自分の目が見開いた感覚がしたんです。何と言ったら良いか分かりませんが、彼らがやっていることが反倫理的で不適切なことをしている様に見えました。彼らを外から見たり話したりする中でその様に感じたんです。
そこでガーナ人の視点を知りたいと思い、それからはいつも現地の人々に話を聞いていました。それを通して私は疑問を抱く様になりました。
ヨーロッパから来ていた人たちは、ガーナが彼らの社会ではないにも関わらず政治的で社会的な変化を現地の社会に与えようとしていました。ヨーロッパからアフリカのガーナに来て彼らの力学を導入していたんです。
この経験が自分自身を捉えて、私もイスラエル社会を変えるために何かをしなければならないと思う様になりました。そこで初めの内は自分の身の回り、自分の周りの社会に働きかけ始めました。
その後、次第に様々な活動に関わる様になり、特にイスラエル国内のユダヤ人とパレスチナ人との問題に取り組む様になりました。そんな最中、学生として最終学年だった2013年にGishaというNGOが設立されました。
このNGOは、ガザ地区などにおいてパレスチナ人の移動の自由に関する活動を行なっていました。そこで電話対応や秘書などの役職が募集されていて、学生でもできる仕事だったので応募することにしたんです。
2013年当時の私はガザのことについてあまり知識がありませんでしたが、Gishaの様な人権団体の活動を信じていたので、同年11月から働き始めました。
当時の私の主な仕事は電話対応でした。頻繁にガザから連絡が入ってきたり、ガザで暮らしている人たちの家族、西岸やイスラエル国内または海外で暮らしてる人たちからも連絡が入ってきていました。
電話の内容は、主にはガザに入りたいだとか、ガザから家族を連れ出したいといった家族が一緒になることを求めるものでした。他にもガザに医療支援を届けたり、子どもを学校に通わせて証書をとらせたいといった話もありました。
そんな彼らと話をして担当のコーディネーターに繋ぐということを行なっていました。中には、既に担当コーディネーターの連絡先を知っているにも関わらず、まず最初に私に電話をしてくる人もいました。彼らと話す中で、彼らの名前や経緯、何を求めているのかを知りました。そこで聞いた話をいくつか覚えています。
例えば、ガザで暮らす18~19歳の若者たちが数名海外の大学に受かりました。当時私も同じく大学生でした。彼らは移動の自由を求めていて、ガザからイスラエルを経由して西岸へ。そして西岸からヨルダンへ行き、そこからイギリスなど海外の大学へ向かいました。
その時、初めてイスラエルの行政レベルでの支配構造に気づきました。BTSのメンバーにもイスラエルの行政に関わっていた人がいます。私の場合、兵役中は射撃の練習をしたり西岸で入植者と関わっていただけなので、そういった行政レベルの支配構造については気づきませんでした。
そして、2014年に戦争が起きた時、自分自身が倫理的にどこに立脚すべきか考えて決断する必要性を感じました。学生としていつもいろんなことを考えていました。戦争が始まりパレスチナ人のイスラエル入国ビザの発給が停止する中、戦時下のガザで再びビザが発給されるの待ち続ける人がいる状況などについてです。
その時考えていたことで今も覚えているのは、彼らと自分たちでどれ程周辺環境が違うかということ。私はイスラエルで暮らしていて学生になるために特別な何かをしたわけではありません。
ですが、彼らは学生として学ぶためにたくさんの行政手続きを経なくてはならず、さらに今ガザは戦時下に置かれている。民兵ではないたくさんの人々が身の危険に晒されている。その時、私たちイスラエルが掲げる方針のおかしさを感じました。
当時私は予備役ではありませんでしたが、その内なんらかの理由で予備役になるかもしれませんでした。そうなった時、私は再び兵役に就くべきか迷いました。でも兵役に就いてガザで起きていることに関わることは嫌でした。
ガザ戦争が起きている最中、NGOの事務所で働きながらガザの人々が権利にアクセスできる様に支援していました。人権団体で働いてはいましたが重要な役割を担っているわけではなく、ただ学生としてのポジションでした。
この経験を経て、これから先自分の人生をこうした活動に費やしたいと思う様になったんです。
Q:いつ頃兵役に就いていましたか?兵役中はどの様に感じていましたか?
2008~2010年の2年間兵役に就いていました。一般的に女性の兵役は2年間とされていますが、人によってはもっと長く兵役に就くことがあります。
私の場合は射撃に関する活動を行なっていて、ライフルによる遠距離射撃や小口径の軽マシンガンや大口径の重マシンガンなどの使い方を訓練していました。だいたい1000~2000の兵士たちと共に射撃訓練を行なっていました。大半の期間を西岸で過ごし、時に訓練をしたり時に入植地に関わることなどをしていました。
兵役中、現地の状況は明確ではありませんでした。私たちは誰からも詳細な地図や全体像などの情報を与えられていませんでした。ただ、明らかだったのは自分たちがいた所がどうなったかということでした。
イスラエルとパレスチナ西岸を分つ境界・グリーンラインがあったとしても、多くの場所で物理的には存在しませんし目にも見えません。それは私たちの頭の中にもありませんでした。
そんな中で私自身が感じていたことはいつも変化していて、自分の中に大きな不協和がありました。
射撃訓練の時やグループ内で何かを教えている時には楽しい感覚があって、特殊な部類の教育ではありましたが私自身楽しんでいました。良い友人もいて日々の仕事を楽しんでました。BTSで教育ディレクターをしていたのも教育の分野が好きだったからなんです。
日々の兵士としての活動を楽しんでいる一方、大きな何かをやっているという強く特別な瞬間を感じてもいました。それは時間が経つにつれ明確になってきました。
兵士たちに射撃や銃火器の使い方を教えること。特に西岸において前面に出て活動する役割を担った兵士に教えていました。彼らは銃火器を西岸内で主に一般市民に対して使います。また兵士は潜在的な脅威を見出そうとするのですが、それは各々の想像力によります。
15~16歳くらいの若者が普段から銃火器を使っていたら力を持ったと錯覚します。人を殺傷する力。ヘブロンなどのパレスチナ人が暮らす地域で銃火器を持って歩き、真夜中にパレスチナ人の家に押し入るなど、圧倒的な力を持ったと錯覚してしまうんです。
そして私はその銃火器の使い方を彼らに教えていました。それは私にとって負担となり、いつも自問自答していました。なぜここで活動しているのか。なぜ兵役に就いているのかについて誰かに話そうとすることもありました。
ですが誰もその話を聞きたがりませんでした。私の友人も皆兵役に就いていて、私はただ不協和の中にいました。この感覚が兵役に就いて一年経った頃から始まったんです。
Q:兵役に就いていた時、罪の意識を感じていましたか?
当時の私は実のところ、兵士として占領政策に貢献していることに疑問を抱いてはいましたが、同時に兵士としての活動に誇りを持っていました。
兵士としての活動に興奮していたし、国に奉仕したいとも思っていました。私の家族や社会の誇りにもなりたかったんです。軍服を着るとすごく誇りを感じていました。今では当たり前になっていますが、当時女性が軍に入って軍服を着るというのは珍しいことだっので、それも相まって自分の仕事に誇りを持っていました。
罪の意識を感じ始めたのは2014年のガザ戦争以降です。その頃から活動家としてよりこの問題に関わる様になって西岸に行き始めました。そこで現地のパレスチナ人に会い、活動家として現地のパレスチナ人の羊の放牧に同行し、自身のユダヤ系イスラエル人としての特権を使って、彼らが土地から追い出されたり危害を加えられたりしない様にしていました。
一般的にイスラエル軍はパレスチナ人を土地から追い出し、入植者はパレスチナ人に対して暴力的に振る舞います。私たちの存在は状況をエスカレートさせずに落ち着かせて、パレスチナ人が日々生活したり働いたりできる状況を作ることに関わっていました。
一方、私はイスラエルの一市民としてやってくるイスラエル兵と話をして現地のパレスチナ人が土地から追い出されない様にもしていました。そんな中でイスラエル兵の目を見ていて自分自身を顧みました。
彼らの心理状態などについては、私も兵役に就いていたので完全に理解しています。彼らはパレスチナ人がここで暮らす権利を持っていることを知りません。なぜなら、彼らはほんの2週間前にこの場所に派遣されただけで、現地の状況を正しく示した地図も持たされず、誰からも現地の状況について教わっていません。
だから彼らは自分たちが間違ったことをしていると思わないし、それにより罰せられることもないんです。実際、彼らはパレスチナ人が農地に一日中、時には一週間アクセスできない様にしていました。
パレスチナ人がそういったイスラエル兵の行いを見ているのを見て、次第に強い罪の意識を感じる様になりました。そうして私自身が過去に何に貢献していたのかを深く理解する様になりました。
それから一年経って、自分自身の中にある罪の意識に頻繁に目を向ける様になりました。罪の意識や誇りは自己のエゴに繋がっていて自分自身の中心に存在しています。自分自身が置かれている状況に対して罪の意識を感じるだけでなく、パレスチナ人に対する責任や私たちの社会に対する説明責任を感じる様になりました。
Q:西岸で初めてパレスチナ人と話した時の印象はどうでしたか?
今となっては西岸にパレスチナ人の活動パートナーがたくさんいて、何人かは友人と呼べる間柄です。自分が活動している場所や活動を共にしている人にもよりますが、様々な経験を彼らと共有しています。
基本的には同じ人たちと十数年にわたって共に活動しています。生まれた子どもが成長して大人になっていくところも見ています。
かつて村を率いていた10代の若者たちも、今では20代半ばになり成功した組織人やジャーナリスト、活動家になったりしています。
そして私の理解では、パレスチナの人々は最終的に個人レベル、家族レベル、そして国家レベルでイスラエル人が享受している様な自由を求めています。
もっと基本的な人間レベルでは、例えば、ラマダン中にイフタールを食べたりしている時にイスラエル軍がやって来てめちゃくちゃにしない様に、何も起こらない様に望んでいます。数年前、2021年のラマダン中にイスラエル軍がやって来てパレスチナ人に向かって催涙弾を放ったこともあります。
私自身は、個人レベルでも政治レベルでも複雑な心境を抱いています。それは自分にとって挑戦でもあります。
西岸の活動パートナーや友人と本格的に関わる様になって以来、様々な面で彼らと共感できる様になったと思います。ただ、彼らが私のモチベーションは何なのかと疑問を持っているのではないか感じたりもします。
私自身もまたガーナに来ていたヨーロッパの人々と同じ様な視点に立って西岸を見てしまっているのではないかと思うこともあります。兵役に就いていた時は潜在的な脅威に目を向けていました。全てが潜在的な脅威になり得ました。
現地のパレスチナ人たちと共に活動する中で挑戦は多いですが学びも多い。村や家でやることも多いです。入植者の暴力やイスラエル軍の要請によって、村やコミュニティで暮らしていたパレスチナ人たちが土地を追われたり、家を破壊されたりしています。
私たちはパレスチナ人たちが何を求めているのか聞いて学ばなければなりません。謙虚な姿勢で学んでいかなければなりません。私自身、よりしっかり彼らに耳を傾ける様になったし、謙虚な姿勢で彼らに貢献していきたいと思う様になりました。
私たちイスラエルの意思決定により影響を受けている人々に対して耳を傾けていくことは大切です。それは私自身にとって地に足のついた現実的な問題です。
特に今はガザで起きていることに目が向いているし、海外の英語圏コミュニティではとても高いレベルのイデオロギー的議論が展開されています。植民地主義がどうとか、ユダヤ人の故郷がどうだとか。ただ人々はイデオロギーをぶつけ合っています。
私は今現地で起きていることについて話したいと思っています。例えば入植者の暴力に晒されている西岸のザヌータでは、250人の住民が追い出されて行き場を失いコミュニティが崩壊して新たな住処を探しています。これはここ2ヶ月の間に起きたことです。
高いレベルのイデオロギー的議論の中には現地の実情について話をする余地がありません。その議論では植民地主義がどうとか、イスラエルと西岸の違いがどうとか、これは戦争なのか入植者の暴力なのかといった議論がなされています。
そういった議論は、250人のザヌータの住民が暴力的に土地を追われたという事実に対しては目を向けていないし、そこを顧みてもいません。いかなるイデオロギーも現実を変えることができないと思います。
私自身、現地の人々と時間を共にしてそれに気づきました。私たちが取り扱っているのは実に具体的で現実的な問題ですが、それは世界的には議論されていません。
Q:10月7日はイスラエル社会に大きな影響を及ぼしたと思いますが市民をどの様に変えましたか?
もちろん10月7日はイスラエル社会にとって集団的トラウマでした。結果的にパレスチナで起きていることに対して、より目や耳を閉ざす様になったり、より嫌悪するようになってしまった様に思います。
ユダヤ人はイスラエルが誕生するまで長らく虐げられてきました。ホロコーストの歴史もあってイスラエルが建国された訳なんですが、その後イラクやイエメン、モロッコなどで暮らしていたユダヤ人も国を追われ大勢イスラエルに移住しました。それは1940年終わりから1950年初めにかけて起きたことです。
そして10月7日に集団的トラウマを負うことになりました。暴力により傷つき、性暴力に晒され、子どもが誘拐され、市民が殺されました。それらは恐ろしく痛みを伴うことでした。
イスラエルはとても小さな国なので10月7日の影響を受けていない人は存在しないと思います。自分の知り合いの中に殺されたり誘拐された人がいたり、自分の身近な人の中に誰かを失った人がいたり、それは影響を受けていない人は存在しないということです。
集団的トラウマは、人々がガザや西岸において自分たちイスラエルがパレスチナに対してやっていることに目を向けることを難しくしました。
BTSとして私たちは、人々の痛みや集団的トラウマ、個人のトラウマを理解しようと伝えると共に10月7日に自分たちに起きたことと同じ様なこと、コミュニティや人々に危害を加えることをパレスチナに対して行うべきではないと説いています。
ただ、今は大半の人が現実を見れなくなっています。また政治的理由でラジオやテレビなどでは実際にガザや西岸で起きていることを報じていません。そんな中で一般の人々が現実を見ることは難しいと思います。
大半の人は実際現地で何が起きているのかを深いレベルでは知りません。大半の人は10月7日以降、西岸において60のコミュニティや村のパレスチナ人が暴力的に土地から追い出されているのを知りません。
10月7日から今に至るまで、西岸だけでもイスラエル国内以上に人が殺されているのも知りません。2023年から2024年にかけての短い期間に過去以上にたくさんの人が死んでいるのを知りません。
Q:イスラエル軍の教育システムはどういったものですか?
兵役に就いて初めの8ヶ月間は基本的な訓練があります。訓練においてはパレスチナ人を非人間的に認識する様に教え込まれるのですが、それにはもっと深い意味があると思います。
戦争のための訓練を受ける兵士がいるのですが、私は彼らの高度な訓練コースにおいて一週間教育を担当し、主に銃火器の使い方を教えていました。基本的に射撃の練習の時に私たちは全身か半身の標的ボードを使用するんですが、ボードではなく軍服やヘルメットを着用したマネキンもありました。
それは外から別の軍が攻撃に来ているのを想定したものでした。どうやって目標を攻撃し攻略するかなど一昔前の伝統的な戦争の手法でした。
何名かの兵士は初めの8ヶ月間で戦争のための訓練を受けた後、西岸に派遣されました。聞くところによると、派遣されて2~3日間は戦争とは関係のないことをしていたそうです。例えば、市民を逮捕したり家に押し入ったりしていたそうです。ですがその中で兵士にとって危害となる様な瞬間はありません。
私たちが西岸に行った時も司令官が「お前たちはここで基本的に行うのは警察の仕事だ!」と言いました。私たちは人を人と思わない様な伝統的な軍隊訓練を受けていました。実際現地では警察的な活動を行っていましたが、そこに警察と軍との明確な線引きはありませんでした。
例えば、2020~2021年にかけてイスラエル国内で大規模な反政府デモが繰り広げられていました。コロナ禍で人の集まりが制限される中で警察が群衆を管理していました。その様な状況の中、そこに軍も来て警察を後方支援する形で活動していました。
銃火器を持った軍が市民に恐怖を与える役割を担っているのを見て、それは彼らの仕事なのだろうかと大きな疑問を抱きました。しばらくして、軍がデモの息の根を止める役割を担っていることに気づいたんです。
ここには主に2つの問題が横たわっています。私たちには政治的なデモを行う権利があり、彼らには政治的なデモを止める権利は無いということです。
西岸においてデモがあれば毎回軍がやって来て解散させます。ですが、そもそも西岸でデモは起きていません。デモをやる権利すらありません。軍の命令や統治によりデモが抑止されているからです。
デモをやる権利が奪われていて、10人以上が集まって政治的なことをする権利すらありません。兵士の仕事はデモを解散させることなんです。ですが、西岸にいるのは大半が一般市民です。
そんな一般市民に対して、ウサマ・ビン・ラディンの様な「テロリスト」の名前を出して射撃します。しかし実際どれ程のテロリストが存在するのでしょうか。故ヤセル・アラファトに対してなんかもそうです。彼はパレスチナ自治政府の議長でした。イスラエル軍はアラブ人を非人間化しテロリストと称して射撃するのを正当化します。
私たちは戦争へ行く兵士を訓練していると深く学びました。ですがその兵士がパレスチナ人を管理・監視していることについては議論されません。そこに自分たちがやっていることに対する本物の理解はありません。兵士は常に継続さている戦争だけを見ていて、ルーティン化された占領を見てはいません。
Q:個人的な経験を通して占領を終わらせるために最も重要だと思っていることは何ですか?
重要なことは、イスラエルが決して特別で特異な国家ではなく「普通の国家」であると認識することだと思います。
軍が市民を支配しているいかなる国において、占領という暴力的な支配構造はいつか終わると前向きに考えています。
そうもそも、どうやって支配されたくないと思う人たちを支配し続けることができるのでしょうか。何百人もの人々が支配されたくないと思っています。そんな中で支配構造を維持するために日常的な暴力が使用されます。これが継続的に支配するための方法なんです。
多くの議論の場において、イスラエルは特別で特異な存在だと主張する人たちがいます。反ユダヤ主義があるから支配構造を正当化しているんです。占領政策を行なってるいかなる国もそれを止めるべきです。
これはパワーダイナミクスを変える上で非常に必要なステップです。パワーダイナミクスの機能の仕方は東エルサレムや西岸、ガザなどでもちろん異なります。
状況により力による支配構造は異なりますが、実際そこに暮らしている人々を力により支配しているという意味では同じです。それは非持続的で反倫理的なやり方です。
海外の人に尋ねられた時には「イスラエルを始めとして他者を支配している国を占領者だと認識し、そのパワーダイナミクスを理解することが平和を達成するための出発点」だと答えています。占領に反対することはイスラエルやユダヤ人に反対することではありません。
私はいつか平和が訪れると信じていますし、占領は終わると信じています。明らかなことは、イスラエルが変わるために海外の人々が占領に反対する声を上げる必要があるし、その責任を負っていると思っています。