*【申込受付中】4月6日開催!「イスラエル・パレスチナ、共存への道」森佑一取材報告会
NGO B’Tselemのイスラエル人活動家一行の車に同乗させてもらい、パレスチナ西岸(以降、西岸)の南ヘブロン(South Hebron Hills)を訪れました。1989年に設立された当NGOは、ガザや西岸、東エルサレムなど人権侵害が発生している地域の状況を調査して情報発信しています。
ここ一帯はパレスチナ西岸(以降、西岸)でありながらイスラエルが自治と治安をコントロールするエリアC(下記地図の青色部分)となっており、イスラエルによる入植が非常に活発な地域です。それ故に過激な入植者によるパレスチナ住民に対する嫌がらせや暴力が後を絶ちません。
イスラエル政府・イスラエル軍・入植者が一体となって推し進めている西岸への入植ですが、10月7日以降はさらに活発化しているそうです。というのも、西岸で活動していたイスラエル兵の多くがガザでの戦争へ動員され人数が減少。それに伴い入植者が武装してより過激に入植を進めていると言います。
イスラエル軍も入植に加担しているとはいえ、入植をある程度コントロールする役割も担っていて、入植活動を推進することもあれば逆に抑制することもある様です。要するに、西岸内でのイスラエル軍のプレゼンスが下がったことにより、重石が取れた格好になり入植活動が活発化してしまったと言えます。
イスラエルによる西岸内での入植地の建設は、1967年の第三次中東戦争から始まりました。この戦争でイスラエルは周辺アラブ諸国に勝利し、ヨルダン川西岸地域(現パレスチナ西岸)も領土にしました。
戦争後、安保理決議において「占領した領土から撤退すれば、アラブ諸国はイスラエルという国家の生存権を承認する」ということで、イスラエルはこの決議を承認したのですがなかなか撤退せず。その後、1973年の第四次中東戦争を経てイスラエルはヨルダン川西岸地域を返還したのですが、入植地は温存され現在に至るまで作り続けられてきました。
現在の西岸の状況は、国連機関のOCHAが発行している西岸地図を参照してもらうと分かりやすいのですが、何十年にも渡り継続されてきた入植により虫食い状態になっています。主に西岸東部のヨルダン渓谷一帯はイスラエルの軍事演習場となっています。また、南から北へ走る主要道路(60号線)を中心にパレスチナ自治政府が行政と治安をコントロールするエリアAを分断する様な形でエリアC(前述)が広がり、その中に入植地が分布しています。その状況を見ると入植地建設がいかに戦略的に行われているかが分かります。
2023年5月時点で、西岸全体には250の入植地(辺境の小規模なものも含む)があり、7万人近くがそこで生活していると言われています。ただ、そこで暮らしている人の大半は経済的入植者(Economical Settlers)と呼ばれ、入植地だと政府からの補助などもあり安く暮らせるという理由で移り住んでいます。主体的にパレスチナ人の土地を収奪しようとする過激な入植者はほんの一部です。
10年前まで毎年の様にパレスチナ取材に来ていたというベルギー人ジャーナリストと現地で知り合ったのですが、彼も久しぶりに西岸に来てみて「10年前と状況が何一つ変わっていない!」と驚いていました。
南ヘブロンではイスラエル人活動家の方々の案内で入植者による被害にあった場所を案内してもらったり、Ta’ayushの活動家たちが行うProtective Presence Activism(PPA)の活動で一緒に現地のパレスチナ人家庭にホームステイしたりしました。PPAについては次回紹介します。
現地パレスチナ人が入植活動により受ける主な被害は、嫌がらせや暴力、家屋や財産の破壊、土地の収奪、強制追放などが上げられます。過激な入植者たちは「2000年前にユダヤ人が暮らしていた土地、神に与えられた土地を取り戻す」という宗教的理念に基づいて行動しています。ちなみに、超正統派ユダヤ教徒の中には反シオニズムの立場の人たちもいます。
その土地土地のパレスチナ人を追い出すために突然近くの土地にテントを張って住み始めたり、頻繁にパレスチナ人が住んでいる場所に来ては、家の窓や塀を壊したり、生えているオリーブの木を切り倒したり、井戸水に車のオイルを入れて汚染したり、ただ暴言を吐きにやってくることもあるそうです。
またそう言った状況にあるため、子どもたちの安全な通学路を確保することが難しい場合もあり、学校に行くために入植地を迂回して何キロも歩かなければならないところもあると言います。
特に土曜日にそう言った嫌がらせや暴力が多発しているそうです。土曜日はユダヤ教徒にとって神聖な日で労働を一切禁止する安息日(シャバット)のはずですが、彼らがその様な行動に出るのは「土地を取り戻すという行為が神聖なこと」と位置付けているからでしょうか(これは想像ですが)。
この地域で暮らすパレスチナ人の多くが羊の放牧を生業にしているのですが、放牧している最中にもに入植者がやってきては「自分たちの土地に近づくな!」といった言いがかりをつけてきて衝突に発展することもしばしばあると言います。そもそもパレスチナ人が住んでいた土地にも関わらず。
衝突が起きると入植者は警察や軍も呼ぶことがあるのですが、基本的に警察や軍は同じイスラエル人である入植者を保護するように行動するのでパレスチナ人にとっては立場的に非常に不利で、逮捕されてしまうこともあります。
他にも政府主導の組織的な土地の収奪としては、パレスチナ人が住んでいる地域を遺跡の保護区に指定すること。遺跡保護を名目に指定した地域からパレスチナ人を追い出して、後から入植者を住まわせるということを行ってきました。
例えば、南ヘブロンにはSusiyaという巨大な入植地が形成されているのですが、そこがまさに前述した様な方法で収奪された土地で、そこでかつて暮らしていたパレスチナ人は現在その北部に新たにSusiyaという同じ名前の村を作って暮らしています。
こういった状況を見聞きすると、逆に入植者がどういった人たちなのか非常に気になってきました。いつか入植地に行って直接話を聞いてみたい。それで色々調べていたら良いドキュメンタリーが出てきました。
入植地が建設され始めた1967年頃からインティファーダ(民衆蜂起)、オスロ合意を経て現在に至る中どういった変遷があったのかについて、入植者にフォーカスして制作されたものです。現地で起きている問題を違った視点で見る上でもとても参考になります。