*2017年12月執筆
2017年11月26日から12月6日までの11日間。アフリカ北東部に位置する小国ジブチの港町オボックにて、イエメン内戦を逃れて難民キャンプや町で暮らすイエメン人たちの暮らしを取材しました。
泥沼化するイエメン内戦
アラビア半島の南端に位置するイエメンでは、2011年に中東で広がった民主化運動「アラブの春」により、30年以上続いたサーレへ政権が崩壊しハーディ暫定政権へ移行した。しかし政情は安定せず、シーア派反政府組織フーシによるクーデターが発生し、暫定政権側と反政府側との内戦へと突入した。また、この混乱に乗じてアラビア半島のアルカイダ(AQAP)などが台頭、イエメン国内で勢力を拡大し三つ巴、四つ巴の内戦へと発展していった。
2015年3月には、フーシがシーア派国家イランの支援を受けていると見たサウジアラビアがアラブ首長国連邦(UAE)を始めとした中東諸国を率いて連合軍を組織し内戦へ介入、フーシに対して空爆を行うなどし内戦は激化した。今や内戦はサウジアラビアとイランの代理戦争の様相を呈し泥沼化している。
そして、内戦の激化にともない多くの市民が戦闘や空爆の犠牲となっている。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の発表しているデータによると2017年12月の時点で、イエメン人口約2700万人の内、約200万人が国内避難民として、約28万人が難民として国内外で避難生活を送らざるを得ない状況にある。
また、イエメンはアラブの最貧国と呼ばれ、内戦に伴い飢餓やコレラが蔓延し非常に深刻な人道危機に瀕しており、人口の約8割以上の約2000万人が何らかの人道支援を必要としていると言われている。しかし、サウジアラビアがイランからフーシへ武器が供給されることを防ぐという名目でイエメン国境を封鎖しており、人道支援や救援物資がイエメン国内に入ることすらままならない状況だ。
こういった危機的状況にあるにも関わらず、国際社会の関心は低く、日本においてもメディアに取り上げられることも話題に上がることも少ない。そんな忘れ去られた内戦、その被害者であるイエメンの人々は、現在避難先で一体どの様な暮らしを送っているのだろうか。
イエメンを望む港町オボック
アフリカ北東部に位置し、エリトリア、エチオピア、ソマリアに囲まれ、紅海とアデン湾を挟んでイエメンに接するジブチ共和国。面積は四国ほどで、そのほとんどが砂漠であり、夏場は摂氏50度にも達する灼熱の国だ。人口は約95万人で、イスラム教徒が90%以上を占め、公用語はアラビア語とフランス語である。また、ソマリア沖の海賊対策という名目で、フランスやアメリカを始めとした西欧諸国が基地を置き、日本も自衛隊基地を置いている。
そのジブチの北東部に位置するオボック州は、ジブチの中でも最もイエメンに近い州だ。オボック州北部の小さな半島が一番近い地点で、紅海を挟んで30キロほど先にイエメン西岸の町バーブアルマンデブを望む。オボックは地理的な要因もあり兼ねてからイエメンとの交易が盛んで、イエメンが内戦中の今も人や物資の行き来がある。町の商店ではイエメンの飲料水が売られるなど生活用品の輸入もある様だ。また、長くオボックの町に住みイエメン料理レストランを経営している人や漁師として生活している人もいる。
UNHCRの発表しているデータによると、内戦が激化した2015年3月以降から2017年10月にかけて、イエメンから約19万人が難民としてサウジアラビアやジブチ、オマーンなどの周辺諸国へ避難しており、ジブチに関しては、約37000人が逃れてきている。当初は毎日の様に200人、300人と多くの人々が避難船に乗り紅海やアデン湾を渡ってオボックに逃れてきていたそうだが、現在は落ち着いている様だ。
マルカジ難民キャンプ、オボックの町での暮らし
オボックの港町から幹線道路沿いに西へ4、5キロ行った土漠にはマルカジ難民キャンプがある。内戦が激化した2015年に建設されたもので、内戦を逃れてきた人々が今も2000人前後暮らしている。ジブチにはこれまでに約37000人が逃れてきたと前述したが、現在この難民キャンプで暮らす人々の数はかなり少ない。彼らの約7割がジブチに近いバーブアルマンデブやモカなどイエメン南西地域タイズから逃れてきた人々だ。
長引く内戦のため、ある人はジブチに住む親族の元へ身を寄せ、またある人は再び船でイエメン国内へ戻り、お金や伝手がある人はジブチを離れて他国へ移っていくためだ。そのため、現在マルカジキャンプに残っているのは基本的にお金も伝手もない人々が多く、厳しい生活状況に置かれている。
ジブチ政府や国連、NGOなどの支援でキャンプ内には給水所やトイレ、モスク、コミュニティーセンターなどが設置されており最低限の生活はできている様だが、土漠の中にあるため埃っぽく、断熱効果の薄いテントやプレハブ暮らしのため夏場は灼熱で、暑さが和らぐ冬の時期は蚊の発生に悩まされる。
毎月一回支援物資の配給があり、米や小麦粉、豆類、塩、食用油など最低限の食糧、また1人につき500ジブチフラン(約300円)が支給されるが、生活する上で十分ではない。野菜や魚など他の食料や生活必需品を得るためにお金が必要だが不十分であるため、オボックの町へ出て不用品を売りお金を得たり、なんとか一時的な仕事を得て日銭を稼ぐしかない。中には魚を釣ってそれを市場で売りお金を稼ぐ人もいる。この様に生活のため日々キャンプとオボックの町を行き来する人々は多い。
オボックの町からマルカジキャンプへ向かう道すがら会ったアリーくん(10歳)は、イエメン西岸の町バーブアルマンデブで暮らしていたが、空爆により身の危険を感じ、2015年に両親と7人の兄弟姉妹と共にオボックへ逃れて来た。現在、彼の日課は毎日キャンプからオボックの町へ自転車で往復約40分かけて買い出しに行くことで、その日はじゃがいもや玉ねぎなどちょっとした野菜を買って帰るところだった。
また、オボックへやってくる人々は身の危険を感じて逃れてくる人だけではない。オボックのUNHCRオフィスで難民申請をするため待っていたイエメン人男性2人は、内戦に伴う物価の高騰から生活が立ち行かなくなりオボックにやって来たそうだ。イエメン西岸の町モカで漁師として働いていた彼らにとって、漁に使うボートのガソリン代の高騰は死活問題で、イエメンで漁をすることが困難になった。
そのためオボックに住む友人を頼って自分のボートでオボックに渡り、友人宅に身を寄せ、ここで漁をして生計を立てている。家族はイエメンに残して来ており、お金を稼いでまたすぐイエメンに戻りたいと語った。しかし、ジブチは非常に物価が高い国であり、お金を稼ぐことは容易ではない。
一回の漁に出ておよそ8000ジブチフラン(約5000円)を稼ぐが、その内6000ジブチフラン(約3800円)はボートのガソリン代に消えるため、結果的に2000ジブチフラン(約1200円)しか利益が上がらない。そこから日々の食費などを差し引くと実質的に得られる利益は極めて低い。
このように、難民として逃れて来ている人々は程度の差はあれど生活に困窮しており、またイエメン内戦の国際的な認知度の低さもあいまって、十分な支援が得られていないのが現状だ。さらに、人道支援が入ることがままならないイエメン国内の避難民の生活状況はさらに厳しい。
忘れ去られた戦争と人々
イエメン難民取材を始めて、今まで多くのイエメン人達と接する機会があった。彼らとの交流を通して内戦の深刻さ複雑さだけでなく、彼らの気質や文化も知ることができ、自分自身にとってはイエメンという国、イエメン人はより近い存在になった。
しかしながら一般の日本人にとっては地理的に遥か遠い国であり、直接的な関わりも薄く、今起きている人道危機に関心を持ちにくいのは確かだ。しかし、問題は認知されない限り解決されることはない。まずは多くの人々に今起きている人道危機に目を向けてもらいたいと思う。
<終わり>