*2018年4月執筆
アラビア半島北端に位置する中東の小国ヨルダン。
パレスチナ、イスラエル、シリア、イラク、サウジアラビア、紅海と接し、パレスチナからの難民を始め多国籍の人々が集う国だ。ここヨルダンの首都アンマンに拠点を置き、内戦で国を追われたイエメン難民を取材しました。
様々な国籍の人が集まる首都アンマン
ヨルダンの首都アンマン。山々が連なり、そこにびっしり建ち並ぶ石造りの建物はここではお馴染みの光景だ。その中でシリア、イラク、イエメン、ソマリア、スーダン、チャド、フィリピンなどからやってきたさまざまな国籍の人々が集まる地域がある。国際色豊かだが、難民として暮らす人々も多い。今回、2017年10月末からおよそ2カ月半の間のアンマン滞在中、イエメン難民取材のために、足繁く通った場所だ。
日本ではヨルダンと聞くと、どんなイメージを持たれるのだろう。砂漠が広がり、人口の9割以上はイスラム教徒で、パレスチナ、イスラエル、シリア、イラク、サウジアラビアに接している。こうした情報からも、「危険な国」と考える人も少なくないのではないだろうか。
特に2015年1月、イスラム過激派組織IS(イスラム国)が起こしたジャーナリスト後藤健二さんと湯川遥菜さんの人質事件に関する連日の報道で、ヨルダンが一躍知られることになった一方、偏ったイメージが広がったように感じる。
滞在していた2017年12月には、米国のトランプ大統領が聖地エルサレムをイスラエルの首都と宣言し、パレスチナ、イスラエルで衝突が発生。他の中東イスラム諸国ではトランプ宣言に反対するデモが繰り広げられ、ヨルダンでも同様のデモが毎週のように行われていた。
確かにそうした面だけ切り取ると、「危険な国」と見られてしまうのかもしれない。
大阪の下町のようなフレンドリーさ
今回ヨルダンを訪れたのは、およそ10カ月ぶりだ。2015年1月から2017年1月までの2年間、海外ボランティアとして活動していたためだ。
「大阪の下町」
過去に2年、この国で暮らした身としては、ヨルダンや中東をこんな風に表現すると、一番しっくりくる。
人々はフレンドリーで、街中や市場を歩いていると必ずと言っていいほど、声をかけられる。アジア人は皆同じに見えるらしく、遠くから「おーい中国人!」と呼ばれたり、カメラをぶら下げていようものなら「写真を撮ってくれ!そしてフェイスブックで送ってくれ!」とせがまれる。
街角のお茶売りのおじさんに「シャーイー(砂糖たっぷりの紅茶)でも飲んでいけ」と呼び止められたり、市場の八百屋では「これでも食べろ」とタダで果物や野菜を渡してくれることもあったり。
まさに犬も歩けば棒に当たると言った感じで、何かしらの交流がある。外国人も気にせず、話しかけてもてなすホスピタリティーは、どこか「大阪のおばちゃん」に通ずるものを感じてしまうのだ。
さまざまな国籍の人々が暮らしている地域。道を歩いているとアラブやアフリカ、アジア系の人達とすれ違うことも多く国際色豊かだ=2018年1月、ヨルダン・アンマン
治安が保たれた平和な国ヨルダン。
それ故に、紛争地を逃れて難民として暮らす人々も多い。
パレスチナ:200万人
シリア:65万人
イラク:6万人
イエメン:1万人
スーダン:4000人
ソマリア:800人
その他:1500人
これは国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が発表しているヨルダンにおける難民登録者数の内訳だ(2018年2月時点)。数字からイエメン人は、難民としてはマイノリティーであることが分かる。
そんな彼らはヨルダンコミュニティーの中でどのような暮らしを送っているのだろうか。
国際社会の難民に対する関心度の差
私がイエメン難民取材をしようと考えたきっかけは、このヨルダンにある。青年海外協力隊で滞在していたとき、中東のニュースなどでシリア内戦やイエメン内戦について、よく目にしていた。
2015年のクーデターを機に内戦が激化したイエメンは、飢餓やコレラも蔓延し、深刻な人道危機に瀕している。だが国際社会の関心は薄く「忘れ去られた戦争」と呼ばれている。
ようやく日本でも、シリアの内戦は報じられるようになり、危機的状況という認識が共有されるようになってきたが、イエメンに関しては相変わらず伝えられていない。同じように深刻な人道危機であるにも関わらず国際的な報道に差があることが心に引っかかり、自分で取材しようと思うようになったのだ。
イエメンでは反政府組織が子ども達を徴兵
今回のアンマン滞在でいくつかのイエメン難民の家族に話を聞いた。その中で印象的だった家族を紹介する。
反政府組織フーシが前線で戦わせるために子どもたちをいたる所で徴兵しているんだ
身の危険を感じ、妻と娘と共にヨルダンに逃れてきたハサンさん(40)。彼によると、内戦で「日用品の価格は2倍以上」に上昇し、生活を圧迫していた。
現在、イエメン国内で運行しているのはイエメン航空のみ。航空運賃は高騰し、ヨルダンまで通常400ディナール(約6万円)のところ、倍の800ディナール(約12万円)に跳ね上がった。
それをなんとか工面して逃れてきたものの、ヨルダンでも生活の厳しさは同じだ。家族3人で格安のワンルームアパートを借りて暮らしているが、しばしば水漏れがあり、ちゃんと塞がれていない屋根からは隙間風が入り込む。アンマンは標高が高く、1、2月は雪が降ることもあり、夜は冷え込みが厳しい。
「できればまともな家に移りたい」が、貯蓄も、ちゃんとした仕事もなく、一時的な日雇いの仕事の報酬でなんとか凌いでいる状況だ。難民登録したが受けられる支援は十分ではないという。
6歳の一人息子と共にヨルダンに逃れてきたサアダさん(35)。子どもの徴兵が頻発していたことから、息子の身を案じてイエメンを離れた。離婚した夫との間に親権問題を抱えるシングルマザーだ。
今は仕事も無く何もすることがない、ただ家にいるだけの日々は精神的に憂鬱で、とてもつらい。。。
イエメンで暮らしていた時は大使館で通訳の仕事などをしていた。だが彼女にとっては、息子が健全な生活を送れる環境こそが何より大切なことだった。ヨルダンでは知人宅に身を寄せ、なんとか暮らせてはいるようだ。
内戦が終わり、息子にとって心配事がなくなればイエメンに帰りたい
愚痴をこぼさずにはいられないようだった。
ヨルダンを離れる日が近づいてきたある日、最後にハサンさんにお別れの挨拶をしようと連絡すると、電話越しの声がとても明るかった。どうしたのだろうかと思いながら、待ち合わせで指定された場所を訪ねると、せっせと働くハサンさんの姿があった。
厳しい生活状況をなんとかしようと、さまざまな人に掛け合い、ようやく見つけた仕事だという。賃金は1日7ディナール程(約1000円)と安いが、毎日のように働いて収入を得られるようで、以前会った時と比べて、生き生きしていたのでほっとした。
「生きる糧を得るために働く」
これは当たり前のことなのだが、日本では働いている理由がわからない人が多いのではないだろうか。難民として異国の厳しい生活環境下で暮らしながらも、家族を養うために一生懸命働く彼の姿から、働くことの意味を改めて考えさせられた。
イエメンはかつて海運の要衝として栄え「幸福のアラビア」と呼ばれていた。首都サナアには世界最古の美しい街並みが広がり旅人を魅了していた。しかし今は「中東の最貧国」に位置付けられ、泥沼化した内戦で疲弊していく一方だ。
内戦が終わったらイエメンに戻りたいですか?
そんなことは考えたことがない。内戦が終わるとは到底思えないから
今回のヨルダンにおけるイエメン難民取材で、忘れられないやりとりだ。一刻も早く戦争が終わり、「幸福のアラビア」へ、誰もが足を運べ、難民が帰ることが出来る日が来ることを願わずにはいられない。
<終わり>