*2020年1月執筆
2019年8月、アラビア半島の南端に位置するイエメンを訪れました。戦時下にあるこの国で直接見聞きし体験したこと、ニュースでは知り得ない現地の様子についてお伝えします。日本から9000キロ離れたアラビア半島南端で起きている戦争やそこで生きる人々のことを考えるきっかけになれば幸いです。
イエメンとオマーンの国境を越えて
ぼんやりと霧がかかる海岸線の山道をひた走るオンボロタクシー。ドライバーの右には、今回の取材に協力してくれるムハンマド(仮名)が座り、身振り手振りを交えながら何やらドライバーと話している。
物言いは堂々とし、はっきりとしている。何年もジャーナリストの取材協力を手がけてきただけあって非常に弁が立つ。敏腕コーディネーターといった雰囲気が、言動の端々から感じられ、頼もしい。
私はムハンマドの後ろ、後部座席の右端に座っていた。隣には、なぜか男性2人が相乗りしていて、若干狭苦しい。かつて2年にわたるヨルダン生活で覚えた日常会話レベルのアラビア語で話しかけてみると、気さくに答えてくれる。しかし、訛りが強くて、いまいち何を言っているのか聞き取れない。
年季の入ったタクシーは、トランクの閉まりが悪いようだ。凸凹した道を通るたびに、バカバカと音を立てて、開いたり閉まったりを繰り返している。何かの拍子に、自分の荷物が転げ落ちてしまうのではないかと気が気でない。
外は霧が深く、周囲はほとんど見渡せない。そんな中でも曲がりくねった山道をタクシーは何事もないように走っていく。時折ノシノシと歩くラクダや、山道のカーブ付近の空き地でピクニックをする人々が目に入る。
しばらくタクシーに揺られていると、今まで目隠しの様にまとわりついていた霧が晴れてきた。左手には薄いエメラルドグリーンのアラビア海が広がり、波が海岸に激しく打ち寄せている。右手には緑色の葉っぱを蓄えた木々が生い茂る山々がある。
石造りの背の低い家が立ち並ぶ小さな集落にタクシーが入る。通りを歩く男性を見ると、頭には伝統的な布「シャール」が巻かれ、「マァワズ」と呼ばれる巻きスカートを身につけている。カラシニコフを担ぐ姿がさまになっている。イエメン人男性の一般的な装いだ。
ここはオマーンと国境を接するイエメン東部のマハラ州。
今まさにイエメン国内にいる
ようやく現地取材のスタート地点に立てたんだ
イエメン難民の取材を始めて以来、いつかは実際に訪れたいと思っていただけに、感慨もひとしおだった。霧が晴れて、目の前に現れたイエメンの姿を前に不思議な高揚感を感じていた。
報道される戦争、されない戦争
そもそもなぜ、私はイエメン取材にこだわるようになったのか。その原点は、海外ボランティアとして2015年1月から2017年1月までの2年間を過ごした中東のヨルダン時代にある。
当時、大家の家に遊びに行っては、砂糖がたっぷり入ったシャーイー(紅茶)をすすりながらテレビをぼんやりと眺めた。大家がチャンネルを合わせていたのは、カタールの衛星放送「アル・ジャジーラ」の報道番組。アフガニスタン、シリア、イラク、イエメン、ソマリア、南スーダンなど、世界中で起きている戦争に関するニュースがひっきりなしに流れていた。
パレスチナやイスラエル、シリア、イラク、サウジアラビア(以下、サウジ)と国境を接しているヨルダンには、何十万人ものシリア人が安全を求めて逃れてきて、難民キャンプや地域コミュニティの中で暮らしていた。
ヨルダンにはシリア人支援団体も数多くあり、日本から支援活動や取材にやってくる人たちに会う機会も少なくなかった。彼らに話を聞くうちに、知らず知らずのうちにシリアに大きな関心を寄せるようになった。
当時すでに、イエメン戦争(*一般的には「イエメン内戦」と言われることが多いが、単純に国内勢力同士が戦う「内戦」ではなく、周辺諸国が介入する代理戦争と化しているため、ここではあえて「戦争」という表現を使う)は激化の一途をたどっていて、「最悪レベル」の人道危機に直面していると言われていた。
しかし、同じ中東の国でありながら、ヨルダンでイエメンの戦争のことを話題にしている人に会うことはほとんどなかった。隣接するシリアからの難民が多いため、当然と言えば当然のことなのかもしれない。しかし、日本ならいざ知らず、ここでも国際的に注目されない戦争があることに何とも説明し難い違和感を感じていた。
イエメンは、アラビア半島の南端に位置しており、北はサウジ、東はオマーンと接し、西と南は紅海とアデン湾に囲まれている。面積は日本の約1.5倍、人口は約3000万人。公用語はアラビア語で、国民のほとんどがイスラム教を信仰している。かつては、交易の要衝として栄え「幸福のアラビア」と呼ばれていたという。
しかし、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)や世界食糧計画(WFP)の発表データによると、2019年8月時点で、イエメンの全人口の1割以上の約330万人が国内避難民で、約27万人がイエメンの対岸に位置するジブチをはじめ、エジプト、ヨルダンなど国外で難民としての生活を余儀なくされている。
さらに、食糧不足や不衛生な環境などの影響で、飢餓やコレラも蔓延。人口の8割にあたる約2400万人が何らかの人道支援を必要としているという。
国際的な注目を集めるシリアとまばらな報道しかされないイエメン
この「格差」はどこから生まれるのかを知りたいと考えたのが、イエメン人の難民を取材しようと思ったきっかけだ。自分が知る限り日本でイエメンに関する取材を行っている人が少なかったことも動機づけとなった。
そして、取材を続ける中で母国を離れた多くのイエメン人の難民と出会い、直接話を聞くことを通して、彼らに国を後にする決断をさせたイエメン国内の状況を自分の目で確かめたいという気持ちがどんどん強まっていった。
難民として暮らすイエメン人に会いに行く
イエメンに関する取材を始めるにあたり、当初からジブチへ行こうと考えていた。「アフリカの角」地域に位置し、バブ・エル・マンデブ海峡を挟んでイエメンの対岸に位置するジブチには、多くのイエメン難民が暮らしていると事前の調べで分かったからだ。
いきなり戦時下のイエメンに行くのはあまりにもハードルが高い。紛争地での取材経験やツテもほとんどなく、不安や恐怖心が大きかった。
少しでもイエメンの状況を知るために、イエメンから国外に逃れて難民として暮らしている人々に会い、彼らの身に何が起き、なぜ逃れてきたのかを聞く。そして、現在の彼らの暮らしを見ることで、イエメン国内で実際に何が起きているのか、戦争が人々に何をもたらしているのかをつかもうと思った。
2017年1月、ヨルダンでの海外ボランティアの任期を終えた後、未然に戦争の発生を抑止し、既に起きている戦争をいかに収束させるかといった平和構築の分野について学ぶプログラムに参加し、フィリピンの大学院で学んでいた。
しかし、大学院に入った時点で既に、卒業したらフリーの写真家として海外で戦争問題の取材をしようと心に決めていた。大学院で学ぶより早く取材活動を始めたいとの思いが強かったこともあり、途中で大学院をやめた。
そして早速、戦争問題の取材に乗り出した。まず手始めにしばらく暮らしていたフィリピン南部のミンダナオ島で起きていた内戦による避難民を取材。その後、今度はバングラデシュへ飛び、ミャンマーで弾圧を受け逃れてきたロヒンギャ難民を取材した。
そして、前々から気になっていたイエメンに関する取材をしようと、2年間暮らして慣れ親しんだ中東へ向かった。再びヨルダンの地を踏んだのは2017年10月。慣れ親しんだヨルダンを中東取材の拠点にしようと考えた。
ヨルダン国内にいる難民の中で、多数を占めるのはパレスチナ難民(200万人以上)、次いでシリア難民(60万人以上)。イエメン難民は約1万人と少数派だ。取材に協力してもらえそうな支援団体やツテはなかったが、ひとまず在ヨルダンのイエメン大使館を訪ね、職員の紹介でなんとか首都アンマンで難民として暮らすイエメン人家族を取材することができた。
翌11月には、当初から訪問予定だったジブチへ行き、難民キャンプの過酷な環境下で暮らすイエメン人達に会った。それから半年ほど経った2018年7月、韓国の済州島に500人以上のイエメン人がやってきているというニュースを耳にした。
「なぜイエメンから8000キロも離れた韓国に?」という素朴な疑問を抱いたのだが、この時はそれ以上の注意を向けることができなかった。そんな時、私がイエメン取材をしていたことを知る友人に「韓国にイエメン人が来ているのに取材にいかないの?」と聞かれた。
日本で生活を成り立たせるのにあくせくとしていていたこともあって、イエメンへの関心が低下していたことに気付きハッとした。すぐさま取材の準備を整え、済州島へ飛んだ。
一連のイエメン難民取材の中で印象に残っているのが、ヨルダンで取材したイエメン人男性一家だ。2011年の終わりに、イエメンの首都サナアから逃れてきて暮らしていた彼らは、当時まだ難民認定されておらず、受けられる支援は不十分だった。
彼には妻と4人の子どもがいて、日雇いの仕事と息子の収入でなんとかやりくるする暮らしを送っていた。日々の食事もホブズ(アラブのパン)にジャガイモやトマトなど野菜中心で非常に質素だった。
そんな彼に、戦争が終わったらイエメンに帰りたいかとたずねたことがある。
そんなことを考えたことはない。この戦争が終わるとは到底思えないから
あきらめたような口調で彼は話した。
2011年、中東や北アフリカで広がった民主化運動「アラブの春」。この時、イエメンでも30年以上続いたサーレハ政権の独裁が終わり、その後、2012年2月にハーディ暫定政権が誕生した。
しかし政情は安定しない。反政府勢力「アンサール・アッラー(以下、フーシ派)」がクーデターを起こし、首都サナアから暫定政府を追い出してしまう。以後、イエメン北西部は現在に至るまでフーシ派の支配下にある。
2015年3月には、フーシ派がイランの支援を受けていると見たサウジが、アラブ首長国連邦(以下、UAE)、エジプト、ヨルダンなどの国々を率いて連合軍を組織して、内戦へ介入。暫定政府を支援し、フーシ派に対して空爆を行い、内戦はいつしかサウジとイランの代理戦争の様相を呈していく。
当のイエメン人にしても、泥沼化する戦争が今後どうなるのか全く読めないのだ。
終わりが見えない戦争
それは一体どういうものなのだろうか? 当事者の話を聞くだけでは足りない。やはり自分で直接行って確かめたい。
そんな思いが頭をもたげて来た。自分の中にあった紛争地取材に対する不安や恐怖感を、「いつかイエメンに直接足を運び、自分の目で現地の人々の暮らしや戦争の実態を確かめたい」という強い気持ちが上回っていくのが分かった。
中でも、私が特に自分の目で確かめたいと思ったのは、サウジを始めとする連合軍の攻撃対象となっているフーシ派の支配地域、イエメン北西部だった。これまでに会った多くの難民がイエメン北西部出身であり、「空爆や戦闘、飢餓などに一番苦しんでいる地域だ」と何度も聞かされていたからだ。
ジブチでのイエメン難民取材の時にインタビューしたイエメン人一家。彼らはイエメンで戦闘に巻き込まれ、それを機にジブチの難民キャンプに逃れてきていた。家長の男性は戦闘で二人の子どもを殺され、家を破壊され、車を奪い取られたと語った。彼らは一体どの様な思いで故郷を後にし、難民として暮らしているのか。
どんなに取材やインタビューを重ねたところで、当事者の苦悩を頭で「理解」はできても、本当の意味で「共感」することはできない。戦争の実相を第三者に伝える上で、被害者の話や姿を通して伝えることはできても、そこに実感が伴っているかどうか自信を持てなかった。
日本の様に遠く離れた「平和」な国で暮らしているとなおさらだ。その感覚の「格差」を埋めるには直接現地へ行くしかない。
反政府地域、イエメン北西部を目指す
2019年8月、私はようやくイエメンに入った。目的地は、フーシ派が支配するイエメン北西部だ。
今いるマハラ州からハドラマウト州を抜け、マアリブ州へ向かう。その間は全て暫定政府が統治するエリアだ。そこを通って、暫定政府と敵対しているフーシ派が支配するエリアに入って戦争被害や避難民の暮らしを取材するという計画だ。
スタート地点であるオマーンとの国境に接するマハラ州の町シェヘンから首都サナアまでの距離は約1300キロ。日本でいうと、車で日本海側を青森県から山口県まで走るくらいの距離だろうか。
サナアに到着するのにどのくらいかかる?
ムハンマドにたずねる。
3〜4日はかかるかな。情勢次第ではルートを迂回したり、一時的に待機する必要も出てくるから、さらに日数がかかるかもしれないな
目的地であるフーシ派エリアに行くのに、なぜわざわざ暫定政府エリアを行くのか。まわりくどいルートを通るのには理由がある。
前述したように、イエメンはサウジ、オマーンと国境を接している。フーシ派が支配する首都サナアを中心とした北西部へ直接行くルートは、普通に考えれば、陸海空いずれのルートも一応は考えられる。
陸路の場合は、サウジから南下して国境を越える。空路であれば、サナア空港行きの便に乗る。海路だと、ジブチからイエメン北西部のホデイダ港行きのフェリーに乗る。
しかしそれはあくまで平常時の話だ。戦時下のイエメンでは、こうしたルートを使うことはできない。
サウジ南部から戦闘が絶えないフーシ派が支配するイエメン北西部の国境を越える陸路はまず不可能だ。イエメン中部のセイユーン空港と南部のアデン空港を除くほとんどの空港は、サウジ連合軍によって閉鎖されている状態で、サナア空港に発着できるのは国連機だけだ。
また物流の要衝であるホデイダ港ではフーシ派と暫定政府軍との戦闘が絶えまなく続き、海上封鎖も行われていた。支援物資を載せた船でさえなかなか入れない状況に、国連主導で停戦合意が図られようとしていたが、それもうまく進んでいない状況だった。
つまり北西部へ直接向かうルートは陸海空いずれも事実上絶たれていた。安全性や費用などを考慮すると、結果的にオマーンから陸路で入国するルートしかないというわけだった。
ただ、このルートも決して楽ではない。鉄道などの公共交通機関があるわけではないので、長い距離を車で移動するだけでも大変だ。しかし、それよりも大きな問題となるのが、フーシ派と暫定政府の外国人受け入れに対する姿勢の違いだった。
目的地であるイエメン北西部を支配するフーシ派は外国人ジャーナリストを受け入れるが、観光客は受け入れない。一方、暫定政府はジャーナリストを受け入れないが、観光客は一応受け入れる。こうしたスタンスの違いはどこから生まれるのだろうか。
フーシ派は外国人ジャーナリストにサウジが行う空爆によって生じた被害を報道してもらいたいと考えている。サウジに対するプロパガンダとして利用するためだ。ただ、観光客まで受け入れるとコントロールしきれないし、フーシ派による子どもの徴兵をはじめとした戦争犯罪の情報などが知られる可能性がある。
過去にイエメン北西部を取材したジャーナリストの話によると、フーシ派エリアに滞在している間は、どこに行くにも見張りの役人が同行して行動を監視されていたらしい。
一方、サウジの支援を受ける暫定政府は、外国人ジャーナリストの取材によって、サウジがフーシ派エリアで行っている空爆の被害などがより明るみに出ることを恐れていた。サウジ批判が高まり、国際社会における立場が悪くなることを危惧しているためで、ジャーナリストの入国を厳しく取り締まっている。
私自身、写真家という肩書きで活動しているが、やっていることはジャーナリストと変わりがない。もし目的がバレると逮捕され刑務所に入れられかねない。
要するに、どちらも自分たちにとって都合の悪い情報が漏れることを避けたいのだ。
イエメンを旅するにあたって、ムハンマドとは入念に打ち合わせた。
町中などで一般人と接する時はマレーシア人観光客のふりをしろ。ただ、軍の検問では、パスポートや許可証を見せないといけない場面も出てくる。その時は正直に日本人であると言うように
どうしてマレーシア人のふりなんだ?
イエメンとマレーシアは昔から交流が盛んだ。国内にマレーシア人留学生や観光客も多い。イエメン人もマレーシアによく行くし、住んでいる人も多い。マレーシア人も日本人もアジア人だから、大抵見分けがつかないだろう
日本人であることを隠すのは誘拐対策でもある。
イエメンには、アラビア半島のアルカイダ(AQAP)やイラク・レバントのイスラム国(IS)などの過激派組織が存在する。
2015年以降、戦争の激化に乗じて勢力を伸ばしていたが、アメリカ主導の過激派対策などにより弱体化し、今はアデンの東に位置するアブヤン州やシャブア州に一定の勢力を保持している程度のようだ。
もちろんその近辺を通ることは避けるのだが、念には念を入れてということのようだ。ムハンマドの細かい配慮に、コーディネーターとしての腕の良さを感じた。
ただ最初は、町中で会うイエメン市民に「ミンアイナアンタ?(どこから来たの?)」と気さくに聞かれると、ヨルダン時代に何百回とやってきた癖で「ミナルヤーバーン!(日本からだよ!)」と答えそうになり、慌ててマレーシアと言い換えることもしばしばだった。
他にも、携帯電話やノートパソコン、カメラ、メモ帳など所持品の取り扱いにはかなり気を使った。中にある画像や情報から渡航目的が発覚することも考えて、パソコン内のイエメンに関するデータは事前に全て削除した。携帯電話の通話やメールの履歴もこまめに消した。メモは数字も含め全て日本語で記録し、もし読まれても解読できないように工夫した。
無事に帰国して、現地で得た情報を世間に伝えられてこそ取材だ
そう考えて、タクシーの中で気を引き締め直す。入国できたことに対して悦に入っている場合ではない。これからが正念場なのだ。
<【番外編】へ続く>